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2005年09月 アーカイブ

2005年09月04日

SV-cafe でノマド

8月28日に名古屋で「「食べもの」の向こう側」という話をさせてもらった。
いろいろなつながりの中でWill Platformが月1回開催するSV-cafeに招いてもらった。
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会場となった「空色まが玉」というオーガニックカフェはむかし米蔵だったらしい。なるほど、天井は高いし、店内は落ち着いている。
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以前に所属していた大学院のゼミで話をした時と比べると、聞き手の層が見えず、1名を除いて初対面なのでやはり緊張した。まあ、普段は全くの初対面となる農家と日々応対しているのだが。
主に話した内容は以下
食を取り巻く状況:一方で食を語る切り口が栄養素や健康機能性など内向きになっていること、他方で食とつながる農の現場や社会状況、文化の在り方など外向きに視野を広げていくことなどを話した。
経済的なグローバリゼーションや食農領域の総市場化などといった暗い側面と農村がもつしたたかさ、豊かさ、直売所や地産地消の動きについて両極の現実について紹介した。
僕らの食を支えている農家について:農山村で撮り溜めてきたデジカメ写真をスライドとして見てもらった。これはとても好評だった。写真を通してリアルに農家の表情や農村の風景などが伝わったようだ。
食を巡る状況を理解した上で、ひとりひとりに出来ること:life politicsという概念的なことも紹介しながら、何処でどういったものを食べるのか、何を選択するかは、一人ひとりがどういった社会を欲しているか、どういった社会的な仕組みを支持していくかにつながっているということを話した。
ゼミでの発表時のように、質問が飛び交うということはなかったが、それぞれが何かを感じとってくれたと思う。主催の岡田さんからは「自分の言葉で語り続けて」というポジティブなコメントをもらえた。
現場を駆けずり回れているからこその、話というものが自分で多少は出来ているのかな、と思えた。

いろいろ反省点は自分の中に持ちつつ、こういった機会をもらえた事をたくさん感謝している。

当日の様子(主催の岡田さんのブログへ)

先日、所属組織の先輩職員に出会ったら、「おい、何か名古屋で話したらしいなぁ。案内のメールがオレのところにも来ていたぞ。オレはいかない方が良いかなと思って遠慮したけど」と。いやはや、世の中狭いものだ。

2005年09月09日

重油代とハウス農業

重油の値段が上昇する。これは、皆さんの生活にどういった影響を与えるだろうか?一番身近なのは、ガソリン代が高くなることだろうか。あるいは、物流コストの上昇から物価が多少高くなることだろうか。さて、農家にとってはどうだろうか?正に死活問題。この時期にハウス農家と話していると、「重油が高くなった。これまでの倍はかかる。どうすっかなぁ」と真剣に悩んでいる人が多い。重油代上昇がきっかけとなって、離農する人も出てきているという。

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愛知県田原町では、たくさんの菊農家に会ってきた。一年通して出荷する産地なので、冬にもハウス内で暖房を焚いて菊を作る。ある農家に聞いてみた。いくらぐらいかかるのか?と。「ウチは1500坪あるジャンねぇ。その広さで、まあ作型とか品種にもよるけど300万切る位かな」と。1500坪というと、5反。野球場半分ぐらいの広さだ。その広さを一冬だいたい20度ぐらいに保つとするとそれだけの経費がかかっていた。それが、倍になると600万だ。重油の値段は高騰しているのだが、菊の値段は高くはならない。「葬式で菊を使わなくなってきたからなぁ。最近の葬儀屋は、しおれた菊だけ取り替えるらしいぞ。全部は替えないんだ。まあ、向こうも商売ジャンねぇ」と。

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今後、長期的に見ても重油代は高騰し続けるだろう。恐らく。重油の高騰は重油代だけではなく、ビニール資材などの高騰にもつながる。「経費ばかり高くなって、逆に農産物価格は下がる一方だから見入りはドンドン少なくなっていくよ。本当に、どうやって生活していくかねぇ」。続けていけない、という農家が出てくるのにもうなづけてしまう状況だ。どうやって、地温を下げないようにするか、ハウス内での栽培期間を短縮するかなどさまざま知恵を凝らしている。

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↑菊ではなく、ミカンのハウスと重油タンク

が、より長期的に考えれば、重油に頼った農業は持続可能ではないと言えないだろうか。現状としては、重油を使うことが当たり前になっている。が、バイオガスやバイオマスエネルギーを使ってハウス加温をしたり、ビニールに変わる素材を利用したりなどの発想転換が必要なのかもしれない。重油高騰という危機をバネにして、自然エネルギー利用の展開が活性化しないだろうか、と思ってしまう。

2005年09月11日

大地の音 part1 (2002/Aug)

マクーというイラン—トルコ国境の街がある。
夜行バスで長距離移動し、ヘトヘトになって着いた。

街をぶらついていると、前から変な杖の様なものを持った人が歩いてくる。
会釈をされたので返すと、日本人だった。まつ毛が一部白くなっているのが特徴的だった。
「何だぁ、この人はヒマラヤでも登ってそうだな」というのが第一印象。
倉さんが手に持っている杖のようなものは竹の筒だった。

彼とは一緒にトルコへと国境を越えた。トルコに入って、禁酒圏イランを脱した祝いにビールを飲んだ。あまり、美味いとは思わなかった。

飲みながら話していると、そう言えばあの竹筒は何なんですか?という話になった。
これは、楽器なんですという。
「いやー、酒が入っちゃったからあんまり上手く吹けないと思うけど」と言いながら演奏をしてくれた。

「・・・スゲェ・・・」
それがディジュリドゥーの音との遭遇だった。
何となく知っていた楽器だが、実際に目の前で演奏されると迫力があった。
これはすごいものだと思った。

彼は、シリアに急ぐということでトルコのはじっこで別れた。
「また会うでしょう」なんて言いながら。

シリアで世界で一番キレイなドミトリーがあると言われる宿がある。確かに良い宿だった。
場所はハマという世界一大きな水車がある街だ。木で出来た車軸がこすれる音は素晴らしい。ディジュリドゥーの音に似ている。
その宿でも彼と会った。その時は僕が入った日にすぐ彼が出ていったので、それ程交流はなかった。「また会いましたねぇ」
「僕はダマスカスにしばらくいます。まあ、そこでまた会うでしょう。」なんて言いながら。

その旅を終えるため、僕はダマスカスに着いた。シリア人の大移動とぶつかりバスのチケットが取れず右往左往したが、ダマスカスに行くというパッカーとミニバンをチャーターして何とかたどり着いた。
四日後には東京に向けて24時間のフライトが待っている。
その街の宿でまたしても、倉さんに会った。彼はチェスをしていた。
その宿の部屋はフル。
中庭のソファーでなら寝てよいとのこと。僕は寝袋を持っていなかったが、彼が「僕のを使いなさい」と出してくれた。

彼の持っている楽器は常に気になっていたが、ダマスカスで聴くことはなかった。

早朝、「僕はイエメンを目指します」と言う彼と握手をした。「また、どこかで会いましょう!」 両手を胸の前で合わせ、合掌してさっそうと出て行った彼の姿が印象的だった。


半年後、僕は北インドにいた。さまざまな旅行者と話していて「一番面白い場所はインドだ」という意見が多かったことも影響している。倉さんが勧めていたのもインドだった。

ヒンドゥー教の聖地「バラナシ」でインドに少し疲れていた。
歩いているとどこからともなく人がすり寄ってきてささやく、「マニー、マニー、マニー」「ハーシーシー」「ガンジャガンジャ」「オンナ、カウ?」

ガンガーのほとりで絵はがき売りの子どもに付きまとわれ、「うるせぇ、向こう行けガキャ」とか言いながら歩いていると、視界を見覚えのある白いまつ毛が横切った。
「えっ、あっ、倉さん!」
「アイヤー、来たんですね?また出て来ましたか?まあまあ、座って。チャイでも飲みましょう。」

半年近くかけて、僕はバイトをしつつセメスターを終わらせ、インドにいた。
同じ時間をかけて、彼はイエメンにたどり着き、パキスタンなどを見て回りながらインドに滞在していた。「もう、3ヶ月目に入ります。僕は、このバラナシが好きなんですよね。すごく落ち着くんです。」

彼は、相変わらず竹の筒を持っていた。ガンガーのほとりで朝夕瞑想した後に吹くという。
神秘的な感じがした。それは「大地の音」だった。
さまざまな雑音が飛び交うガート(沐浴場:川のヘリはコンクリートで固めてあり、巨大な階段のようになっている)で、聖なる川ガンガーに向かってディジュリドゥーを吹く彼の姿も、そのうねるような不思議な音も素晴らしかった。

中東で会って、バラナシのガートで再開した。これは、何かの縁だと感じ思い切って聞いてみた。「倉さん、僕もその楽器をやってみたいのですが、教えてくれますか?」
「ん、やりますか?ふふふ、良いですよ、じゃあ竹を買いに行きましょうかね。」
ということで、僕もディジュリドゥーを演奏する人間に加わったのだ。
嬉しくってしょうがなく、暇も手伝い毎日吹いていた。

「バラナシに来たら沐浴しなきゃもったいないですよ。やるなら、朝日の出る前、早朝ですね。」との言葉に乗せられて、僕はネパールに発つその日の早朝にガンガーに入った。
腰まで浸かっている状態から全身を聖水に勢い良くうずめる。あまりの冷たさに体を上げるときに口が開いてしまう。当然水が口の中に入り込む。ガンガーの味がした。
沐浴中、彼はずっとガートの六角の上でディジュリドゥーを演奏していた。

「ガートで出会って、ガートで別れましょう」そう言ってバラナシを出る僕を見送ってくれた。「また会いましょう!」合掌。

僕は倉さんとばったり再会することで、大地の音を奏でる楽器とつながった。
その楽器はさらなる出会いをたくさん奏でていく。

そのうち、どこかでまたばったり会うだろう。

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インド・ムンバイにて、音で地元民と交流中。

2005年09月12日

大地の音 part2 (2002/Aug)

「へー、何それ、他の音も出るの?」
「音階とかはあるの?」
「ふーん。お、面白いね。 ところでさぁ、、」

3年前に意気揚々と竹製のディジュリドゥーを大学に持っていった時の周囲からの反応はこんなもんだった。一部の民族音楽好きには受けたが、他の人々には全く相手にされなかったと言っても良い。
その時に強烈に思った。「いつか、この楽器で人を感動させてやる」と。

7月の21日と22日に僕は栃木県の益子町にいた。ジャンベという西アフリカ原産のさまざまな音色を出す太鼓を叩く人が集まる祭りがあると知人に誘われたのだ。
半分は、研究のためのフィールドワークのためだった。

ダムを見ながら奥に進むと開けた原っぱになっていて、そこに人が集っている。
福島の獏原人村という自給自足を基本とした集落に住み全国を軽ハコで移動している人や、楽器作りや幼稚園での音楽ワークショップをやっている青年、仕事をしながら土日は練習やジャンベなどを使ったライブをやっている人、食えないミュージシャン、ジャンベ屋さん、農業をやりながらジャンベをこよなく愛する青年、見るからにラスタ・マン、季節労働をしながら音楽イベントを渡り歩く人、陶芸家などさまざまな人が集まっている。
学生は恐らく僕だけだった。

「調査しに来ました」では確実に壁を作ってしまう。恐らく友人にもなれないだろう。どのようにコミュニケーションを取るのか、それが問題だった。僕はジャンベを叩けるわけでもない。だが、ディジュリドゥーがあった。

到着してまもなく、中央の広場には皆が集まってジャンベセッションをしている。さすがに、それに入り込む余地はないと思っていた。
そのセッションが終わったあたりで、僕はおもむろにディジュリドゥーをもって移動した。
以前会ったことのある、鉄楽器職人のてっちゃんがジャンベを湿気から守るためにしまおうとしていた。
「てっちゃん、ジャンベしまっちゃうの?ちょっと遊ぼうよ。」
「おお、良いよやろうやろう。」

ディジュリドゥーをそこに転がっているジャンベの後ろに差し込む。音の反響が倍増して、マイクなしでもかなり良い音が響くようになるのだ。

てっちゃんは一定のリズムをジャンベで刻んでくれる。僕はそれに合わせてディジュリドゥーを吹きまくる、吼えまくる、ビートを刻みまくる。
途中から人が集まりだし、「おお、すげぇ」と呟いている。ジャンベで参加する人も出てくる。
視線が痛いので目を閉じて、周囲のささやきが非常に気になりながらも演奏を続行する。10分ぐらい吹きまくり、吼えまくり、刻みまくったところで、てっちゃんのジャンベがスローペースになりジャムセッションは終了。

「ウォーオオ」と拍手と声が方々から上がった。「スゲェ、どのぐらいやってるんですか?」「いやー、良いですねぇ」といろいろな人が言ってくれる。

「いやいや、ほんの3年ぐらいしかやっていないし、大して上手い方ではないですよ」と正直に言うが、

「いやいや、関係ないよ。僕は人の演奏とか滅多に褒めんけど、今のは気持ち良かった。なかなかグッドだ。」
「今何してんの?ディジュでライブとかやってるの?」
「それで食ってけるとちゃうん?」
「いやー、君のディジュリドゥーは最高だ。」
「感動した。」
「途中まで車を取りに下りていったら、良い音がするからまた上がってきちゃったよ。」
「今度一緒になんかやろうよ。」
なんてことを言ってもらった。
一番驚いたのは自分だった。

芸は身を助けるというが、その後のジャンベ陣との交流はかなりスムーズにいった。ディジュリドゥーを吹く人間として認識されているからだ。
ただ、あまり時間がなかったのと、大抵の時間をジャンベ演奏に没頭している人たちと多くを語ることは難しかった。僕自身も途中から「調査」といったことを忘れはじめていたこともある。

技術的に上手い下手ということが分かりにくく、その人の吹き方とかフィーリングといったものが直に出る楽器だ。音階や楽譜が分からなくても全く問題はない。
演奏をする場所や雰囲気といったものも大きく関係してくる。ダダッ広い原っぱで吹くと地面を伝わって少し離れたところまで音が届く。大地と共鳴する。

人を感動させるという当面の目標は達成された。次はどんな目標を作ろうか?
倉さんとの出会いから3年以上たった。今、こんなことになってます。

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↑最近は、ジョイント式のディジュリドゥーが仲間入り。nomad life にも対応中。

2005年09月22日

儲からない遊び (愛知県田原町)

愛知県田原市田原町
田原は菊とキャベツの産地
専業の若手や中堅がゴロゴロいる。20代の若い人もたくさん就農している日本でも珍しい地域だ。
専業地帯のひとつの特徴は「農業はカネを取る手段」という考え方が強いこと。農業で食っているのだから当然の意識なのだが、時として「カネ」が中心の論理になり過ぎる。作物がカネになるモノに見えてきたり、「カネ」にならない、自給の野菜などは趣味の園芸として切り捨てられたりする。「米も野菜も全て買ってるよ。その方が安いからね」というフレーズも何度も聞いた。でも、中にはしっかり自給作物を作っているバアちゃんジイちゃんがいる。
野田という地区を回っていた。カーネーション団地があり、菊専業やトマト専業がいる地区。元々田んぼだったところに細々と野菜が植えてある畑があった。そこで、ばあちゃんが作業をしている。何気なく近づいて話をする。「これは、自分の家で食べる分の野菜を遊びで作っているんだよ。儲からんお遊びだって、息子にはバカにされてるんだけど。ウチはカーネーション農家だけど、毎日ハウスの中で作業ばかりしていたらおかしくなっちゃうじゃんねぇ。たまには、こうしてお日様の下で農作業をするのが私は好きなのよ」と。

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ばあちゃんは、僕が見たことのない作物の葉っぱを摘み取っていた。「何ですかこの花は?」と聞くと、嬉しそうに「ゴマ」と答える。

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え、ゴマってこんな風になっているんだ。初めて見た。何でもばあちゃんはゴマが好きで家族が一年食べる分をこうして作っているのだという。「健康にも良いしね。炒りたてを食べるんだよ。美味しいよ。ウチの食卓にはいっつもゴマがのっているんだ。嫁も料理に使ってくれるしね。まあ、遊びだって言われるけど良いんだぁ」と。次の日同じ畑を見ると、ゴマは全てきれいに刈り取られていた。刈り取った後は、新って天日に干して、食べる都度炒るという。儲からない遊びが、家族の健康を支えている。

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↑この中にゴマが入っている。自然の構造は神秘的ですらある。

2005年09月25日

農民の叫び(その1)

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秋田県平鹿郡平鹿町を回っていた。9月6日から3週間ほど。
平鹿町は水田とリンゴやブドウなどの果樹が主な農業の町。
見渡す限り黄金色をした水田の拡がる風景には心が躍る空間だった。
たくさんの出会いや発見があったが、強烈だったのは飯野正和(イイノマサト)さんとの出会いだ。9月14日。
1年半以上に渡って農村を駆け回っているが、これほど熱く農家と議論したのは考えてみれば初めてのことだった。
初めは、農業技術の話を彼としていた。イネに吸い付き、食害を引き起こすカメムシ対策の話。木酢を田んぼの内側に撒いてやると、匂いでカメムシが田んぼの中に入らなくなるといったことを説明していた。
「うんうん、分かるんだよ。こういう技術的な話も大切だってことはさ。でも、君らはこうして農村を回っていて、はっきり言って危機意識がないんじゃないの?この地域や集落にある、閉塞感と不安感と絶望感と、そういったものを感じ取れていないんじゃないか?技術的に精進して良い物を作るというのは分かるけれども、それどころじゃない状況なんだぜ。ここの現実はさ」と。
彼は積年の鬱憤を晴らすかのごとく、自分の地域や農政に対する悲観論を僕に対してぶつけまくってきた。
「農家が作物を作るのにどれだけ苦労しているのか、都会の消費者は分かっていないだろ。農薬や化学肥料が嫌だとかってのが流れになってトレーサビリティーが重要視されるようになったね。いつどれだけの農薬を散布したかだとか、化学肥料を使ったかだとかを帳面に書いていくんだけど、すっごく煩雑なんだぜ。はっきりいってやってられないよ。手間ばかり増えて。僕でもタイヘンなのに、もっと高齢の農家には本当に負担だ。こっちは、一所懸命丁寧に栽培をしているのに、それが認められないような感覚がある。消費者は「あっちこっち」に買う先を変えるし、現場の都合を知らない無茶な要求をしてくるし。何なんだよ、消費者主権ってのはさ?無農薬栽培だってさ。まったく、自分たちでも栽培してみろっての。」
「米の値段も安い。今年は仮渡し金で1俵(60キロ)12600円ぐらいだ。去年よりも安くなっている。1反から8俵あげたとしても10万切るぐらいだぞ。機械代や燃料費、僕らの投下している労働量を考えたら、本当にやってられるかという値段だ。損するために作っているようなものさ。もう、田んぼは作るなってことなのかね?」
「今、農政は大規模農家に担い手になってもらう農業を推進している。そのうち、大企業が大規模に農業をやるようになる。そういった政策を見ていて暗い気持ちになっちゃうんだよ。長年百姓をやってきて、百姓仕事に僕以上に思い入れと誇りを持っている、じいちゃんばあちゃんはどうなるんだって思ってしまうよ。これまで農地を守ってきて、良い野菜や米を作り続けてきた人たちは切り捨てられるような政策だからね。彼ら彼女らが尊重されていない感じがするんだ。」
「僕は若い時から農民運動をやってきて、政府に対して異議申し立てをしたり、消費者との交流をしてきたりいろいろやってきたよ。東京にだって訴えに行ったよ。だけど、どれだけ伝わっているのかなぁ、何が変わるんだろう。もうホトホト疲れたよ。ホントに。嫌になってくる。君らにこの閉塞感と現場の現実と不安と絶望感が分かるかぁ?本当にどうしたら良いのやら、分からないんだよ。」
これほど本音で、青二才の僕に思っていることをぶつけてくれる。不満の捌け口にしたいという雰囲気では全くない。「とにかく、農民の叫びを聞け!」そんなオーラが彼から出ていた。そして、僕は彼の話を聞きながら、自分の考えていることを伝える。(つづく)

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2005年09月27日

農民(とノマド)の叫び その2

彼の話を聞いていて思ったのは、「ああ徹底した悲観論だ」ということ。農民から悲観論を聞くのは日常茶飯事だけども、いろいろな活動をしていて今も農業委員をしながら地域のことを考えている人から発せられる言葉には重みがあった。けれもど、彼の悲観論をそのまま受け入れる気持ちにもならなかった。
「飯野さんが言っていることも確かに分かります。けれども、世の中そう暗い話ばかりではないはず。いろいろな農村を回っていれば活気のあるところにも出会いますよ。」
「とにかく、悲観論を言っていても始まらない。暗くなっていくだけです。最近よく言われていることに「ないものねだりではなく、あるもの探しへ」というフレーズがあります。アレがないコレがないと嘆くのではなくて、足元を見つめれば様々な宝物はその地域に転がっているはずです。平鹿にだって、美味い米や雑穀、素晴らしい景観、温和な人びとなどなどがあるじゃないですか。」
「ここにある閉塞感と言いましたけど、都会にだって充分すぎるほど閉塞感がありますよ。日本全体では年間に3万人以上が自殺するらしいです。東京で働く僕の友人は1日14時間働くことなどざらで、会社に泊り込んだり良くしています。どんどん眼つきが鋭くなっていき、大丈夫かなぁ、と思ってしまう友人もいます。人と人とのつながりや支え合いが寸断されている中で、それこそ都会の閉塞感や不安といったらないですよ。」
「今、農村空間が持つお金に換算できない豊かさが注目され始めています。若者が農村へ向う動きや、農的な暮らしへの関心の高まり、食への意識の高まりなど。そういった人間にとっての豊かさの本質的な根源が農村空間にあるのかもしれない。そんな考え方も出てきています。」
「大きな政治的仕組みに対してモノを言うのは大切だし、継続してやっていかなければならないことでしょう。けれども、同時に自分の生活の在り方、生き方自体からも変化させていかなければいけない。まずは、自分の生活を愉しむこと、充実させること、そういったことも大切ではないか?」
などなど、すごく無責任で地に足の付いていない言葉だと思いながら、それでも僕は何故か語っていた。

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「君の言っていることは分かる。けれども、ここのどうしようもない現実の前ではねぇ。。。本当にどうしたら良いのやら分からないんだ。もうダメかもねぇ、って思っちゃうよ」と飯野さん。
その後、双方が同じことを別の言葉で繰り返し語っていた。「限界が来た。もうダメだ。」「いや可能性はある。何とかしていこう。」という形で。
双方が疲れてきたところで、僕は聞いてみた。「マサトさん、百姓仕事やっていて愉しいですか?愉しいでしょ?」と。
彼は少しの間を置いて、語ってくれた。「この間、宇宙飛行士の毛利衛さんが来てくれてさ、宇宙から見た地球の話や宇宙の話をしてくれたんだ。そん時、オレは思ったね。宇宙に行かなくても、日々宇宙を感じてるんだなってさ。例えば、田んぼでメダカを発見した時、キレイな水にしか棲まないハリザコという小さな魚を見つけた時、オレはそこに宇宙を見る気分になるんだぜ。ここのキレイな水や景観の中で仕事をしていてそりゃ愉しいと思うさ」と。ここでも、悲観論が出てくるようならそれまでだと思っていたが、そうではなかったので僕はほっとした。
「今後は、農協や行政に過度に依存せず、異業種間の交流や若い人の知恵工夫を借りて何とか閉塞感を乗り越えていきたいと思っているんだ。農家は良い作物を作ることはできても、それを売ったりアピールしていくノウハウがない。そこまでやれと言われても正直ムリだ。だから、センスの良い若者にも手伝ってもらって、さまざまな分野の人と交流しながら何とかこの地域を支えていきたいと思っているんだ。それと、もっともっと消費者に対する働きかけってのが必要だね。エンドユーザーが変わらなければ生産するほうはどうにも出来ないからさ。そのためには、メディアの役割は大きいはずだ。君にも期待してるぞ」最後はそんな少し希望とも展望とも取れるような話もしてくれた。
昼飯も食わずに2時間ぐらいはぶっ続けで話していただろうか。僕は少し朦朧としていた。「いやぁ、これほど農家と本音で語り合ったのは初めてです」
「ん、本音?こっちは全然本音じゃないよ。本音でしゃべったら、もっと厳しいこと言っちゃうもんね」と彼はニヤリとしていた。

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「こんなカッコで悪いなぁ」と言いながら写真を撮るのを許してくれた。

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