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2005年12月 アーカイブ

2005年12月18日

風のすみかへようこそ

NPO文化学習協同ネットワーク編(2005)『風のすみかにようこそ』東京:ふきのとう書房.

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本を読みながら、涙ぐむなんてことがこれまでにあっただろうか?
この本に登場するひとの多くを僕は知っていて、具体的な顔やあれこれ考えたり悩んだりしながら働いている姿が思い浮かぶ。「ウンウン、そうかそうかぁ」とひとりで頷きながら、一気に読んでしまった。心が躍り、涙腺が緩んだ。
働きたくても今の過度の効率やスピードを求められる職場では働けないし働きたくもない。もっと、自分のペースで生きることが認められて、やっている仕事も誰かの役に立っているという実感が欲しい。そんな青年たちのための「働きながら学ぶ場」として、地域の人たちが求めるおいしいパンを届ける場として風のすみかはある。

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誕生日に贈ってもらったパンたち。モチモチした食感ですごく美味しかった。

パン屋を作り、この本を出した文化学習協同ネットワークとは色々な縁でつながりがある。大学を出た後に『カンパネルラ』という季刊雑誌の作成に関わったり、神奈川や長野での農業体験やパン作りのイベント、様々な学集会などに参加させてもらったり、大学院を出た後には塾部門でバイトをさせてもらったり、と。僕はその場その場にちょこちょこと参加させてもらいながら、それこそ色々なことを学ばせてもらってきた。
勝ち組と負け組みの選別、過度の競争的市場原理などは現在強まる風潮にある。多くの場面で効率、競争、スピードなどが社会を席巻し、それが当然のこととして受け入れられている。僕の中でそういった価値観に違和感を覚え、閉塞感を感じていた時にNPOの代表である佐藤洋作さんが語っていたことが忘れられない。「どうやって弱者も強者も含めていろいろな人が一緒に生きていけるかを考えていきたい。これまでは弱者や奴隷が強者や主人になることが求められていたが、弱者が弱者で生きられる社会、いろいろな人が認められて生きられる社会を作っていきたい」と。僕にとっては大の大人が「一緒に生きる」ということを真剣に語りかけてくることが衝撃だった。飲み会の席でそう伝えると、「共に生きるってことを語るのは、当然のことだろ!」と強く語っていた。
「競争的な市場主義とは別様のオルタナティブな仕組みを創る」と言うのは簡単だが、現実にはナカナカ簡単ではない。けれども、このNPOはネットワークや夢、支え合い、協同と共生の思想などで何とかかんとか仕組みを作り上げてきてしまう。その実行力には相変わらず感心させられる。
もちろん全てが順風満帆というわけではない。紆余曲折、悩み、トラブルはたくさんあったようで、本の中でも紹介されている。あてにしていた職人さんが辞退したとか、スタッフ自身が「もう辞めたい」と何ども思ったとか。単なるサクセスストーリーの書いてあるパン屋の成功美談ではなく、トラブルや悩みも含めて表現されているところが本の作り手の性格を映し出している。
僕自身も転職を控え、新しいことへのチャレンジが待っている。オルタナティブな仕組みを創り出すことにも関わっていく。そんなタイミングで読んだので余計に良いエネルギーをこの本からたくさん受け取った。
本もパンもホンモノだ。
たくさんの人に味わってもらいたい。

「風のすみか」のブログ
本はふきのとう書房からも注文できる

評者:後藤 彰

2005年12月21日

カルカッタでの一日

今月は更新が渋っています。
エッジの電波が届かない場所に3週間ほどいました。
愛知の奥三河です。良いところでした。寒かったですが。
ブログ更新のため、ではないのですが、昔書いた文章を。
昔も、移動遊牧していました。カルカッタ、懐かしい。

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カルカッタではなく、ゴアの夕日

2002年07月03日(水)

1999年2月27日から3月1日まで、インドのカルカッタにいた。
3度目の一人旅は一ヶ月目に突入していた。
カルカッタはなかなか魅力的な街だ。わい雑な宿群、女とハッパのみを求めてやって来るイカレタ旅行者、気さくで親切な旅行者、擦れた物乞、しつこい物売り、美味い各国の料理とビール、束になって歩いているインドの人々、喧騒の一因を生み出す車のクラクション、朝晩の涼しさと昼間の熱さ。その全てが視覚的に新鮮で、インドの香りを放っていた。

カルカッタにはマザーテレサの作ったマザーハウスがある。
そして、関連する医療施設がいくつかある。
ストリートチルドレンや行き倒れた人、死にかけの人を施設に入れ、食事や屋根、医療を提供する。老人、子ども、心身障害者などが入居している。「死を待つ人の家」と称される施設もある。
そこにはいつでも多くの旅行者がいわゆるボランティアとして関わっている。そのためにインドまで来る人もいるほどだ。

朝早く(6時半ぐらい)に路上にあるポンプ式の井戸で水浴びをするインド人を見ながらマザーハウスに行き、パン、チャイ、バナナ、クラッカーなどの軽い朝食を取る。
その後、スラムと化した駅を横目に見ながら施設に15分ぐらいかけて歩いていく。「プレムダム」という名の施設だったと思う。

仕事は、男女別になっている薄暗い部屋に敷き詰められた簡易ベッドを片づけ、床を掃除することから始る。男は男の部屋を担当する。
なぜ掃除をするのか?汚物や食べこぼしなどで汚れているから。毎日掃除をしなければ、熱いインドでは病気も瞬く間に広がるだろう。

まずは、糞尿をどける必要がある。その後で水をぶちまけ、洗剤をばらまく。
中腰になって、柄のない先っぽだけの竹箒でとにかく掃き掃除をする。
そして、雑巾で床を拭いていく。どちらも腰にくる重労働だ。
ベッドを設置し直し、シーツや枕カバーをかけていき大体の清掃仕事は終わる。

その後で、洗濯がはじまる。職人風のジイサマが大釜でグツグツと入居者たちのルンギ(腰巻き)や毛布、シャツ、パンツといったものを煮ている。煮沸消毒なのだろう。
そのアツアツの洗濯物を洗剤の入った層とすすぎの層でじゃぶじゃぶと洗い、絞る。洗濯用の層は、5メートル四方ぐらいのコンクリート層だ。それが、二つあったと思う。
絞った後に、こん棒のようなもので叩く。とにかく叩く。叩くことによって水はしぼられ同時に衣服はもまれる。それが洗濯だ。川べりで洗濯物を岩などに打ち付けているところをイメージできるだろうか?同じ原理だ。
3人ぐらいが横に並んで、無心でこん棒を振り下ろす。
自分が何をインドに来てまでやっているかなど問うてはならない。
重要なのはリズムと腕力だ。
その流れ作業を何度か繰り返す。
その後は当然、干す。日中はとても熱いのですぐに乾く。

大体、10時半ぐらいに「ティー、ティー!」とお茶休憩の合図が出る。
甘いチャイとビスケット。
疲れた精神と肉体には格別に感じられる。
そこで、短期旅行の学生からいつ帰るか分からない長期旅行の人間などと会話を楽しむ。僕のいた時期には20名弱ぐらいだったように思う。
「バンガロールに行ってサイババに会うんだ」と言っている人が何故か多かった。
何処から来て、何処へ行くのか?何処が面白かったか?
そんな旅行者の決まりきった会話や、宗教とは何か?生死をどう考えるか?資本主義の害悪、アメリカ型開発の是非といったことも話していた。

4月、5月になるとバタバタと入居している病人が死んでいくらしい。死体安置所はすぐに満たされてしまう、と言った話も聞く。路上で死んでいくよりは、毎日着替えられて、食事もできて、話し相手もいて幸せだろうね、と言う人もいれば、ここの人々は食って寝てクソして、死を待っているだけなんだ、と吐き捨てるように言う人もいた。

休憩の後は、入居者用の食事を準備する。非常に大きな釜で炊いた米と、巨大な鍋に入ったカレーを運び、皿に盛って入居者に配っていく。「早くよこせ!」と怒鳴っている人々が多い。何をしゃべられているか分からないが、とにかく四方八方から罵倒されている気分になる。
入居者の多くが、心身障害者だ。鼻水を垂らしながら、切断された脚を引きずりながら、動かなくなった手をぶらぶらさせながら、とにかく「飯を俺のところへ早く持ってこい!」と叫んでいるようだ。とても、賑やかな世界になる。

配り終えると次は、「パニー、パニー!」と水を要求する声が大合唱となる。ヤカンをぶら下げて対応に追われる。さらに、スプーンで皿を叩きお替りを要求してくる。
パニー、ガチャガチャ、パニー、パニー、ガンガン、、。大合唱。

食べ残しを下げようとすると激昂する老人がいた。何やら怒鳴られる。慣れた人は「はいはいしょうがないねぇ」といった形で対処していくが、僕には何やら意味が分からない。
精神が疲弊していく。体が硬くなっていく。

食事の世話をする間中「頼むから僕を呼ばないでくれ」と心底思っていた。
異様な容姿をした人々に分からない言葉で呼ばれ続けるのは正直言って精神的に疲れるからだ。おぞましきものとでも認識していたのだろう。理解不能なものとして排除しようとしていたのだろう。
動きや表情はかなりぎこちなかったはず。

食事の後は、食器類の片づけや入居者の移動、そして食事をしていた場所の掃除をする。
入居者の移動は車イスに乗せたりと当然接触が増える。相手がおとなしければ良いが、ごねたりするとどうして良いか分からなくなる。「僕を呼ばないで」と心底思っていた。
食事をしていた場所に水をぶちまけ、食べこぼしを掃き掃除をして大体終わりだ。

12時を過ぎるぐらいには宿のある場所までオート・リクシャーをシェアして帰る。
午前中だけなのだが、体も精神も疲労感に満ちる。動きの読めない相手、分からない言葉、重い空気、熱さ、そういったものが気力を奪っていく。

こんな仕事2日もしたくない、と思いながら計4日間だけ通った。

僕は、3月2日の早朝に他者との遭遇の感覚を持ってバンコクへと飛んだ。
おぞましきもの、理解不能なものでしかなかった患者との他者としての遭遇は3月1日に起こった。

2005年12月23日

カルカッタにて 他者

先日アップした過去の話の続編です。

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インドへ向う船の上からの景色

2002年07月10日(水)

1999年3月1日、次の日の早朝にバンコクへ飛ぶためマザーハウスでの仕事は最後となる。
その最後の日に、恐らく初めて仕事を楽しくこなすことができた。他者と遭遇したからだ。

その日も、床掃除を終え、作業は洗濯に移っていた。バケツに入った洗濯物を干し終わり、次の洗濯物を取りに行こうとした時に ‘hey!’ と呼び止められる。診察を担当している西洋系の医者らしき人が僕を呼び止める。口ひげにテンガロンハット。医者には見えないが、医者だ。「リハビリをするから、手伝ってくれ」。

足腰の弱った老人を歩かせるリハビリだ。歩かせなければ、寝たきりになってしまうのだろう。僕にとって患者は動きの読めない理解不能な、あるいはおぞましさをも伴う存在だったので一瞬ひるんだが、嫌だとは言えずに手伝いはじめる。

「よし、ここからあっちまで行って、帰ってくるその繰り返しだ。」
「患者の横に立って、歩くんだ。」

「あまり、支えすぎるな!」
「患者が倒れないように注意しろ!」
「下を向くな!前を見ろ!」
「患者とコミュニケーションを取れ!」
「うまくUターンをしろ!」とやたら注文が多い。
ドギマギしながらも何度か短い距離の往復をする。

患者の手と腕には力がなかったが、確かに人間のものだった。力なく、一歩一歩ゆっくりと、傷ついた人間が歩いている。ただそれだけだった。

自分の横にいたのはおぞましきものでも理解不能なものでもなく、一人の人間だった。
僕はそれを、体に触れるということ支えになるということを通して皮膚感覚から理解した。
それまで持っていた漠然とした不安は、あっけなく溶けていった。

その後で「よし、じゃあ次は患者のマッサージをしろ。このクリームを塗って、足や腕をマッサージするんだ」と指示される。

先日までは、他の人々がおぞましき患者に接している風景を見ていて、「よくできるものだ」と嫌悪感を含むような複雑さで感心していた。
だが、僕の前にいる人々はもう、人間だった。

日なたに座っている痩せさらばえたジイサマに声を掛け、ふくらはぎや腕にクリームを塗り、マッサージをしていく。
その肌には一種の冷たさを感じさせられ、切なくなるぐらいに痩せている。
首の付け根や肩ももんでやる。
自分がマッサージされて気分が良いところをやれば良いのだ。

「ティゲ?(good?)」と聞くと「ティガチェ(good)」とつぶやき程度に返してくる。あるいは、インド人特有のクビのかしげ方で答えてくる。OKだよ、いい気分だよと。
「痩せとるなぁ、じいちゃん。もっと食わなきゃだめだぞ」なんて言いながら、患者と接することがいつの間にか楽しいことに変わっている。

それは、他者との遭遇という一つの感動的な「出来事」でもあった。

おぞましき患者との肌を通した交流によって、他者性が浮上し、
それとともに漠とした不安や気の重さは流れ出ていった。

僕にとっては、コミュニケーションが作動するまで、
他者はまだ他者でもないのかもしれない。

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