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2006年02月 アーカイブ

2006年02月01日

ノマドプレゼン 課題をもらう

1年9ヶ月の経験を元ゼミの場でも話させてもらった。
中央大学総合政策学部サドリアゼミという空間。
僕はここに学部4年修士2年の6年ドップリ浸かっていた。
僕が出発点であり、ひとつの大切なネットワークだ。

プレゼンの前には毎回「誰に何を伝えたいか」ということを考える。
アレコレ構想を練る。前回のプレゼンで指摘された「後藤彰が語るオリジナリティ」というフレーズが僕の頭の中にあった。こうなったら、僕自身を語ろうか、そんな風に思っていた。
僕が学部と院で研究したこと、その時考えたことぶち当たった壁、NPOやNGOとの関わり、そして1年9ヶ月の仕事とそこで見聞き感じ考えたこと、そしてこれから先に考えていること。このラインに僕の考え方や認識を支えている思想や理論的枠組みを重ねていく。
この日は久々に丸一日PCの前に座り「レジュメ」を作ることになった。
(当日のレジュメはサドリアゼミのHPにアップされている)

僕の中でのテーマはbe the change/alternative ということ。
1年9ヶ月間方々見てきて、5000人近い農家に会って来て一番思ったこと。
「自分で自分が大切だと思う価値観や思想を体現したい実践したい」ということ。
欲する変化自身に自分がなるということ。

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よく「スーツで農村回っているの?」と聞かれていた。
いやいや、こんなカッコで回ってました(夏バージョン)。

研究をしている時は、社会から距離を取って分析的に物事を見ることが実践だった。
博士課程に進むことも考えていた僕がぶち当たった壁は「僕にはいまいち明確なテーマがない」ということだった。現場に出たくなった。
そして、仕事を通して現場に出た。現場だらけだった。けれども、「あ、結局まだ自分は観察者の域を脱していないんだなぁ」と分かった。作物を育てたり、地域づくりに奔走したりする農家と会って話をしていると、作物を育てたこともなく、地域には全く根を張っていない僕が「何を偉そうなこと言ってんだろう」という葛藤があった。
現場にいる人を別の場所から批判することは簡単なのだけれども、僕が会って来た人々は時間やお金の制約、ムラの論理などのさまざまな限界の中でもがきながら「実践」をしていた。自分の生活を組み立てながら、さまざまな工夫をして地域を盛り上げたり、良い作物を育てたりしていた。
共生的なコミュニティ、循環型農業、農的生活、本当に豊かということ、質の良い食、オルタナティブなライフスタイルetc…。農村空間を通して見えてきたもの、学べたことは数知れない。
人に期待したり、提案したりするのではなく、もう自分自身が欲する変化になってしまいたい。そういった想いが募っていた時に、タイミング良く(狙いすまして)転職の話がやってきた。村に農に食に関わる仕事だった。
給料は減るし、どうなるか分からない、先の見えない選択と言えばそうだろう。けれども、何故か僕にはさして不安がない。土に根ざした生活をしていれば飢えはしないだろうという感覚。限界だらけの現状を工夫しながら切り拓いてきた農家とたくさん会って来たこと。「やればできるんじゃないか?」そんなchallengingな気持ちが僕の中にある。

でもやはり、発表自体では「ストレート」に主張をぶつけるのが下手だった。2時間近くの話になったこともあり、オーディエンスの疲れを僕が感じ取ってしまったこともあり、難しかった。もちろん、僕自身もしゃべり疲れていた。ラスト近くの一番肝心なところでトーンダウンしていた感があった。
しかし、こんなしょーもない人間の等身大の話からいろいろ感じ取ったり受け取ったりしてくれた学生もいた。

サドリア教授からは「学生からあれだけいろいろなコメントが出てきたのは素晴らしいことだった。ゼミにこうして戻ってきて話をしてくれたことに感謝します。けれども、プレゼンのキャパシティが減った感じがする。君のプロジェクトが進んだらまたゼミに話に来なさい」と言われた。
さらに「記憶が鮮明なうちに、経験をしっかりまとめて本にしたら良い。それこそ、君が修士で研究した社会意識知識生産になる」とも言われた。
ベアーズウェルの際にも「本を出したら良いじゃない」と言われたり、その時に知り合った人にも「本は出していないの?」なんて言われていた。

よし、やってみっかな。


プレゼンへのコメントやそれに対する僕の応答がHP上で展開されている。
Sadria space 僕の研究の足跡はこちらから
Beart articles

2006年02月07日

佐世保にて車

長崎県佐世保に18日間滞在していました。また合宿。
実は、この年まで自動車免許を持たずに過ごしてきた。特に必要性を感じなかったから。
携帯も特に必要性を感じていなかったから去年の今頃までは不携帯を貫いていた。
携帯は持つは免許は取るわという状態になってしまった。

大塔自動車学校というところにて合宿してたのだけれども、少子化と不況の影響もありイロイロ大変そう。自動車学校と言えば「鬼教官」という貧困なイメージだったが、こちらが面食らうぐらいフレンドリーな雰囲気の中で教習を受けてきました。指導員と学生はすごく仲が良い。冗談を言い合ったり、気さくに話をしたり。鬼教官なんてとんでもない、という世界でした。

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当たり前なのだけれども、「お客様第一」の商売なんですね。
学生の担当指導員がだいたい決まっていて、ある意味担任制になっている。
が、これが何を意味するのだろう?
指導員は週休1日で朝から晩まで仕事詰め。かなりハードだ。担当する学生がいる以上気軽に有給など取れない。学生の夏休みも春休みも仕事になる。そして、給料は安いらしい。
お客は僕も含めて早いとこ免許を取得したい。学校はそれに対応するスケジュールを組む。指導員にしわ寄せが行く。
どうしたらもっと余裕があり、人間らしい働き方ができるだろうなぁ。
指導員の休日を公表して「この日は○×指導員は休暇です」とはじめから宣言してしまったらどうだろう?スローな職場ですと宣言する。
あるいは、僕のような人間があまり早さを求めずに免許を取れば良いのだろうか?
と考えつつも詰め込み最短のストレートで合宿をクリア。後は免許センターにて筆記を受けるのみ。

しかし、あの教習項目をただただ淡々と教科書読みながら詰め込むというやり方はどうにかならないものだろうか?ほとんど意味がない。本を読めばそれで事足りると思うのだ。ムダにコストを押し上げているよなぁ。

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早岐の海 この周囲を走ったり、海を眺めながら酒を一人飲んだり

2006年02月10日

天草への道

2月4日に免許合宿の実車テストがあった。いわゆる、卒業検定。
それに、クリアすれば天草へ。ダメならば、3日後にまた検定を受けなおす。
確定してはいなかったけど、天草の友人と連絡を取り合って、フェリー乗り場まで迎えに来てもらう段取りをつけた。その足で、本渡市のカフェ・バオバブで行われる三線ライブに行く約束もした。いけるかどうかは、検定次第。いわば崖っぷち。
久々に胃が痛くなるような感覚を抱きながら、検定へ。検定員が親切だったこともあり、結果はクリア。やればできるもんだ。
電車→バス→フェリーと乗り継いで天草へと向かう段取りをつけていた。
全て順調かと思ったが、そうもいかなかった。
1時間40分乗る予定だったバスが渋滞にはまってしまう。
「何でこんなに世の中に車が多いのだ?」と真剣に考えさせられた。車社会の現実。「やっぱり、車なんて乗るもんじゃない。免許も必要なかったかなぁ」なんて思う始末。
この渋滞だとフェリーの乗り継ぎに間に合わないかもしれない。運転手に尋ねると「う~ん、厳しいと思います。なるべく飛ばしますけれども。ムリじゃないかなぁ」と。
半分、フェリーはムリかなぁと思いつつ何とかかんとか天草にはたどり着けるのではないかと思っていた。
運転手は山道をこれでもかとばかりに飛ばす飛ばす。事故を起こすのではないかというぐらい飛ばす。本当に怖かった。海っぺりのがけっぷちを制限速度オーヴァーで突っ走る。
その甲斐もなく、フェリーの時間には10分差で間に合わず。「間に合わんかったなぁ。ごめんね」と運ちゃん。
さてどうしたものかと考えつつ「何とかなる」と思っている僕。
近くの商店で今日中に天草に渡る手段を聞く。初めは「わからんなぁ。明日の朝一で行くんだねぇ」といった反応だったが、今日中にどうしても行かなければいけないといった話しをしていたら、「あそこのお茶屋さんが確か瀬渡し船を出していたかなぁ」と情報が出始める。「電話で聞いてやるけん」とやさしいおばちゃん。問い合わせをしてくれる。こっちに泊まるぐらいならちょっと料金がかさんでも天草に渡りたいと思っていた。
「ああ、お茶屋さんですか。○×商店のものですけど、今ね、東京からの観光客がフェリーば逃してこまっとるとよ。お茶屋さん瀬渡し船ば出しよる思ったけん、どげんかと思ってねぇ。今から船ば出せるね?そぉ~ねぇ。」というわけで、おばちゃんの電話の末、御茶屋さんが船を出してくれることに。ものの15分ぐらいで天草へとたどり着くことが出来た。こういった技は仕事を通して身につけられたものだなぁと思う。「フツーなら諦めて、宿を探すよなぁ」と天草で言われた。
ズーズーしさのお陰で、ドタバタの末、カフェにもたどり着き素敵な三線ライブを堪能できた。

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2006年02月13日

命をつなぐ

僕の天草訪問の目的のひとつは残飯リサイクル採卵養鶏を夫婦2人でやっている「ひまわり農場」を訪問することだった。
中川みどりさんとの出会いは2年前に一緒にピースボートに乗って世界社会フォーラムへ参加した時に遡る。船上で「エコとピースで食べていく」という企画をナマケモノ倶楽部で打ったのだが、その時にみどりさんにはプレゼンをしてもらっていた。「エコだピースだって言うけど、実際そんなことで食っていけるの?」という往々になされる反応に対して、実践している人の話を聞いてもらおうというものだった。循環型の農業と暮らし。
「うちなんか参考にならないかもよ~」なんて言われながら、4日ほど滞在させてもらいいろいろ体験させてもらった。
やはり、直にその人のところへ赴き、顔を合わせて話をすると見えてくることが多い。
旦那の剛さんとは初対面だった。「人の出す廃棄物を家畜に食わせて、そこからまた人が利用できるものに変えることが畜産の使命だと僕は思っているんですよ」とポツリポツリと語ってくれる。考え抜かれた思想を実践して生活を組み立てている彼の言葉にはすごい重みがあった。言葉が身体を貫いて出てきている。
「人は無数の命を殺して、奪って自分の命をつないでいるんです。野菜や家畜の生命をいただいている。僕らの命の裏には無数の命が横たわっている。一人ひとりの命というものはそのまんま、理屈抜きに尊いんですよ。ね、だから、戦争反対!」と。戦争反対という良く聞くフレーズが違った印象を持って僕の耳に入ってきた。新鮮だった。
彼の仕事は養鶏であり、命に毎日直面している。年のいった鳥を屠殺するのも仕事のひとつ。無数の命を奪っているという実感を持っている彼と頭では無数の命を奪って生きていると分かるが、実感のない僕。これはもう、体験するしかない。
毎日の食、その中にはもちろん動物の肉も入っていることが多い。野菜がどうやって育てられているかが良く分からないように、肉がどうやって「生産」されているかも良く分からない。仕事で野菜や米の育てられている現場は無数に見てきたし、野菜や米の収穫ならばやったことがある。けれども、動物性の肉については未経験だった。一度は経なければいけないとなんとなく思っていた。
ひまわり農場訪問の目的として屠殺体験がかなりの割合を占めていた。
その日は、なんと鳥を6羽潰すという。剛さんには「命に直面してください」とこれまたポツリと言われる。
彼が一羽目を潰す。続いて僕も一羽潰す。
まず羽を交差させて羽交い絞めにする。これで鳥は動けなくなる。関節をムリに動かすので非常に痛そうだ。
それから、首を丁寧に砥いだ包丁でスパッと切る。血が流れ出す。
血を抜く。
鳥は血が抜ける過程でもがく。もがく。もがく。
血が抜け切る頃には動かなくなる。
熱いお湯に浸けて毛穴を開かせて、羽毛をむしり取る。そして、食べる肉と内蔵を取り出すために潰した鳥を解体する。残るのは、肉、内臓、鳥殻。

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僕は計2羽の命を奪った。一羽目はナカナカ首を上手く切れなかった。相当緊張して力の入った手で包丁を首にあて「エイヤッ!」と引くのだが、大して切れていない。これではかえって鳥を苦しめる。切らねばならぬ。ザックリと。
切る時どんな感じかって?
「ありがとう」でも「ごめんね」でも「お疲れ様でした」でも「いただきます」でもなかった。膝がガクガク震えるとか、泣き出して出来なくなるとか、事前にいろいろなケースを聞かされた。何も感じていないわけではないが、僕の場合は無心だった。鳥の体温を左手に感じながら、右手で包丁を握り締める。無心の集中。
血を抜く過程で羽をバタつかせたり、身体をよじったりする最後の抵抗を受け止めながら、とにかく、鳥の体温をいつまでもいつまでも手に感じていた。
解体の際も、内臓や筋肉にまだ生暖かさが残っており、何ともやりにくい感じだった。

これだけの工程を経て鳥の命は奪われ肉になる。豚や牛は身体が大きい分、もっと大変なのだろうなぁ。苦労した末の鳥料理。自然と感謝していただく。それと同時に、「ここまでして肉を食する必要があるのだろうか?別に肉を摂らなくても野菜で充分なのではないか」と思ってしまった。焼き鳥屋にいって「心臓」なんて気軽に頼んでいるけれども、バチ当たりなことだ、と思ってしまった。
では、野菜はどうなのか?同じように命を頂戴していることには変わりがないのではないか?野菜の命と家畜の命に、重さの違いがあるのかどうか?そんな話を剛さんとしていた。
野菜に関しては、命を奪っているというよりも、「いただく」という感覚の方が僕は強い。言葉として「同じ重さの命」と言われて分かるが、屠殺を体験したら圧倒的にそのリアリティは異なる。
いずれにせよ、こうしてつながれていく僕の「命」を恥ずかしくないように丁寧に生きようと思わされてしまった。
屠殺体験、ぜひ皆さんにも「命に直面」して欲しい。

cf:中川さんとこのブログ「ひまわり農場、代表鶏締役日記。」

2006年02月19日

移動遊牧から定住農耕への道

「移動遊牧」 シャレで使い始めたこの単語だったが、自分のここ2年の生活を的確に表現していた。
仕事をする前にもナマケモノ倶楽部の関係で熊本県の菊水やら西表に行ったり、ピースボートに3週間乗って那覇、マニラ、ブルネイ、シンガポール、ムンバイ(インド)、ゴア(インド)と旅をした。ディジュリドゥーとWWOOF体験目当てでオーストラリアにも訪れた。その後、仕事でたくさん移動遊牧。
仕事を辞めてから、免許合宿で長崎県佐世保に。合宿終了後に熊本県の天草、西原村、熊本市、菊池市と移動してきた。
ここ10日間ほどは移動遊牧に「居候ライフ」がセットになっている。友人宅・現地で出会った人のところ、知人宅などネットワークを駆使して居候つづき。皆さんに暖かく迎えてもらえるので愉しんでいる。家の創り方や家族との関係など、さまざま参考になる。
とうとう福岡県田川郡赤村に居候先を移しました。移動遊牧+居候もそろそろシャレにならないので定住農耕+家主というスタイルに移行したい。条件が整えば、徐々に望むスタイルに転換できそうだ。

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赤村はこれから僕のフィールドになる場所であり空間だ。1年9ヶ月の移動遊牧生活を通して、さまざまな農山村を見てきた。そこでいろいろな出会いも発見もあったけれども、決定的に欠けていたものがある。「当事者」であるということ。大学院で学んでいた時に「自分がどういった具体的なフィールドに出るのか」という壁にぶち当たった。だからナマケモノ倶楽部で活動をして、その後に農文協で働くことを選択してみた。が、結局「当事者」ではなかった。僕は相変わらず観察者でしかなかった。これはもう農山村に入り込むのが僕の道だなぁと漠然と思っていた。フィールドに「出る」というところから、フィールドに「なる」というところへ。人がやっていることを見たり語ったりするのではなく、自分がモデルを創って、モデルになって、自分で語りたい。
様々な縁があって、赤村に落ち着くことができそうだ。やりたいことはたくさんある。まずは、自分の生活を素敵にデザインしながら丁寧に創り上げること。いのちをつなぐ根源である食の自給にもチャレンジしたい。人生捨てたもんじゃない。beart = life politics

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