僕の天草訪問の目的のひとつは残飯リサイクル採卵養鶏を夫婦2人でやっている「ひまわり農場」を訪問することだった。
中川みどりさんとの出会いは2年前に一緒にピースボートに乗って世界社会フォーラムへ参加した時に遡る。船上で「エコとピースで食べていく」という企画をナマケモノ倶楽部で打ったのだが、その時にみどりさんにはプレゼンをしてもらっていた。「エコだピースだって言うけど、実際そんなことで食っていけるの?」という往々になされる反応に対して、実践している人の話を聞いてもらおうというものだった。循環型の農業と暮らし。
「うちなんか参考にならないかもよ~」なんて言われながら、4日ほど滞在させてもらいいろいろ体験させてもらった。
やはり、直にその人のところへ赴き、顔を合わせて話をすると見えてくることが多い。
旦那の剛さんとは初対面だった。「人の出す廃棄物を家畜に食わせて、そこからまた人が利用できるものに変えることが畜産の使命だと僕は思っているんですよ」とポツリポツリと語ってくれる。考え抜かれた思想を実践して生活を組み立てている彼の言葉にはすごい重みがあった。言葉が身体を貫いて出てきている。
「人は無数の命を殺して、奪って自分の命をつないでいるんです。野菜や家畜の生命をいただいている。僕らの命の裏には無数の命が横たわっている。一人ひとりの命というものはそのまんま、理屈抜きに尊いんですよ。ね、だから、戦争反対!」と。戦争反対という良く聞くフレーズが違った印象を持って僕の耳に入ってきた。新鮮だった。
彼の仕事は養鶏であり、命に毎日直面している。年のいった鳥を屠殺するのも仕事のひとつ。無数の命を奪っているという実感を持っている彼と頭では無数の命を奪って生きていると分かるが、実感のない僕。これはもう、体験するしかない。
毎日の食、その中にはもちろん動物の肉も入っていることが多い。野菜がどうやって育てられているかが良く分からないように、肉がどうやって「生産」されているかも良く分からない。仕事で野菜や米の育てられている現場は無数に見てきたし、野菜や米の収穫ならばやったことがある。けれども、動物性の肉については未経験だった。一度は経なければいけないとなんとなく思っていた。
ひまわり農場訪問の目的として屠殺体験がかなりの割合を占めていた。
その日は、なんと鳥を6羽潰すという。剛さんには「命に直面してください」とこれまたポツリと言われる。
彼が一羽目を潰す。続いて僕も一羽潰す。
まず羽を交差させて羽交い絞めにする。これで鳥は動けなくなる。関節をムリに動かすので非常に痛そうだ。
それから、首を丁寧に砥いだ包丁でスパッと切る。血が流れ出す。
血を抜く。
鳥は血が抜ける過程でもがく。もがく。もがく。
血が抜け切る頃には動かなくなる。
熱いお湯に浸けて毛穴を開かせて、羽毛をむしり取る。そして、食べる肉と内蔵を取り出すために潰した鳥を解体する。残るのは、肉、内臓、鳥殻。



僕は計2羽の命を奪った。一羽目はナカナカ首を上手く切れなかった。相当緊張して力の入った手で包丁を首にあて「エイヤッ!」と引くのだが、大して切れていない。これではかえって鳥を苦しめる。切らねばならぬ。ザックリと。
切る時どんな感じかって?
「ありがとう」でも「ごめんね」でも「お疲れ様でした」でも「いただきます」でもなかった。膝がガクガク震えるとか、泣き出して出来なくなるとか、事前にいろいろなケースを聞かされた。何も感じていないわけではないが、僕の場合は無心だった。鳥の体温を左手に感じながら、右手で包丁を握り締める。無心の集中。
血を抜く過程で羽をバタつかせたり、身体をよじったりする最後の抵抗を受け止めながら、とにかく、鳥の体温をいつまでもいつまでも手に感じていた。
解体の際も、内臓や筋肉にまだ生暖かさが残っており、何ともやりにくい感じだった。
これだけの工程を経て鳥の命は奪われ肉になる。豚や牛は身体が大きい分、もっと大変なのだろうなぁ。苦労した末の鳥料理。自然と感謝していただく。それと同時に、「ここまでして肉を食する必要があるのだろうか?別に肉を摂らなくても野菜で充分なのではないか」と思ってしまった。焼き鳥屋にいって「心臓」なんて気軽に頼んでいるけれども、バチ当たりなことだ、と思ってしまった。
では、野菜はどうなのか?同じように命を頂戴していることには変わりがないのではないか?野菜の命と家畜の命に、重さの違いがあるのかどうか?そんな話を剛さんとしていた。
野菜に関しては、命を奪っているというよりも、「いただく」という感覚の方が僕は強い。言葉として「同じ重さの命」と言われて分かるが、屠殺を体験したら圧倒的にそのリアリティは異なる。
いずれにせよ、こうしてつながれていく僕の「命」を恥ずかしくないように丁寧に生きようと思わされてしまった。
屠殺体験、ぜひ皆さんにも「命に直面」して欲しい。
cf:中川さんとこのブログ「ひまわり農場、代表鶏締役日記。」
コメント (5)
おひさ。
羨ましいことしているね。
馬場さんがこないだの日曜日に埼玉の農家に遊びに行ってそこでやはり鶏を絞めてきたんだそうだ。
馬場さん自体は生き返ったと言っていた。きっと命をいただいてきたんだろう。
僕は感謝の念すら忘れがちだよ。
投稿者: kai | 2006年02月17日 00:07
日時: 2006年02月17日 00:07
どうも、お久しぶり。
って、私のこと、覚えているかな?
中大総政出身の森川です。そうそう、アフリカ馬鹿の。最後にお会いしたのは、2年くらい前の国際協力フェスタだったっけ??
たまたまスロービジネススクールのページを見ていて、彰くんのサイトを見つけました。
色々試行錯誤しながらも、人生楽しんでるな~ってのが、すごく伝わってきました。農村の豊かさと厳しい現実について書かれていた文章が面白かったです。
都市と農村について最近感じたことといえば、先月、2週間ばかり旦那とセネガル&ガンビアに里帰りしたときかなあ。首都ダカールは、海外で成功した人のものと思われる豪邸の建設ラッシュ。物価も高くて、益々おカネが幅をきかせていました。人々の服装や車などもおしゃれで洗練されたモノが以前より格段に増えたけれど、心なしか、人々の振る舞いもちょっとよそよそしくなったような。
その後、数日間だったけれど、旦那の親戚が住んでいる村に滞在。そこは昔と変わらず電気も水道もなく、料理は薪で作っていた。もちろん、鶏のトサツ現場も見ましたよ。子ども達は相変わらず、服が泥んこになるのも構わず、鼻水をたらしながら駆けずり回っていた。喉が渇けば、そこら中になっているオレンジを取ってきて吸いつく。いわゆる「白人」である私に対しても、興味津々で話が通じようが通じまいが構わず誰も彼も挨拶してくれるのが嬉しかった。セネガルと違って英語が通じるということも大きいけれど、心から仕事を忘れてのんびりと過ごすことができたのでした。
もちろん、コンクリにトタン屋根の垢抜けない家ばかりだし、ホットシャワーなんて夢のまた夢だし、子供が多くて生活は必ずしも楽ではないし、現金収入を得るのは大変だし、ちゃんとした病院もなくて問題は色々あるわけなんだけど、やっぱり私はこっちの方が好きだなあ、落ち着くなあ、と思ってしまった。
私も、早く当事者になりたいと想いつつ、御茶ノ水のオフィスに通う今日この頃であります。また、どこかでひょっこりお会いできそうな気がします。では、お元気で!
投稿者: みるく | 2006年02月27日 00:02
日時: 2006年02月27日 00:02
みるくさん
お久しぶりです。元気そうで何よりです。
もう二年も経ちますかねぇ?年取ると時間が過ぎるの早いね。
いろいろな形で当事者にはなれるし近づけると思っています。
それぞれが「今ここ」にある自分のフィールドで出来ることをやっていけたら良いですね。
フィールド自体を自分で創るのもありですが。
福岡近辺に来たときには是非とも赤村に立ち寄ってください。
投稿者: akilagotoh | 2006年02月27日 08:43
日時: 2006年02月27日 08:43
熊本の素晴です。
赤村の新居、とてもよさそうですね。
暖かくなったら、遊びに行きます。
僕も今日は熊本の御船町で鶏の解体です。
長年、御船町で野放しの養鶏をされている緒方さんの作業場で2羽提供してもらって潰します。
「ちょっと遊びに来ない?」と誘われたので、お客さん気分でいましたが、どうやら僕が講師扱いのようです。。。
まぁ、講師実績は沢山積みたいので、有難い話ですが。
動物を殺めて、解体して、食べるということは僕にとってはさほど違和感のないことです。
(〆るのが大変じゃない)鶏なんかでも、若い女の子は完全にヒイてしまう人が多いです。
鶏肉がスパーに並ぶようになった時点で、「あーここまでくれば、大丈夫、なんとか食べられそう」
という発言を聞いたとき、ゾッとするものがありました。
何を食べているかわからない薬漬けの肉を毎日のように食べることの方がゾッとしますが、
それはともかく、これが若い人の一般的な感覚だと知り、カルチャーショックを最近受けたところです。
食(命)に対するリアリティの無さには、かなりの危機感を感じます。
都市部を中心とした圧倒的大多数が、食と自然の摂理が遠く分離してしまっていることは大前提の問題として、
さらに、「ヒイてしまう」という現象は現代社会のリアリティの無さだけではないかなと思いました。
女性は「母性」という(生理的な要素を含む)性質が動物を殺めるのに向いていないということがあると思います。
さらにそもそも日本人は動物を殺して食べることに向いてないかもしれません。
大陸の文化だった四足文化が一般化したのは、ここ数百年の話のでまだまだ歴史的には浅いんですよね。
民族性としては、まだ四足を食べることには適応していないのかもしれません。
民族といっても単一ではないですし、日常的に動物を食べていた文化もあったと思うので一概にはいえず、
そういう民族性の名残を持っている人が多いのではないか?という程度ですが。
肉を食べることにリアリティを持てたときに、肉が食べれなくなる人もいるみたいです。
それには遺伝子レベルの背景があるのかもしれません、
それはそれで(潔癖気味ではなく)自分の血として自然体で受け入れるべきことかもしれません。
この考えに至るまでは、屠殺を見たとたん、肉が食べれなくなる人にしたして、
「おいおい極端だなぁ、今までこんなに沢山食べてきたのに!!」と思ってました。
現代人らしい潔癖の延長かなと思ってましたが、それだけではないのかもしれません。
今日の解体は技術的なところを中心まとめアップするつもりなので、上がったらまた報告しますね。
投稿者: Subaru | 2006年03月03日 10:05
日時: 2006年03月03日 10:05
終わりのほうのコメントにそれだけ感謝して食べてるのか、とあり
どきっとさせられました。きっと多くの人、がその命の重みを当たり前のように、また忘れて食べている。。。んでしょうね。とくに、このたくさんの手がかかわって人の口まで届く食時代は。「命の教科書」という、富山県の小学校教諭、金森せんせい著の本にも、教え子、小学校3年生程の子供たちと、その親と一緒に屠殺をしたことがかかれてあります。面白い本なので、もし機会があったら目をとおしてみてくださいな。
いただきますとは命をいただきます、と聞きました。
このひととき、思い出させてくれてどーも♪
またきっと明日は平然と喰ってるだろうから、笑。
あと、思い出した、「流学日記」という20代前半の青年が世界を
流学した本にもその体験談が、かれのコメントも面白かったです。
投稿者: ayanopiano | 2006年03月04日 00:02
日時: 2006年03月04日 00:02