14歳との対話と反省
先日上京した折に、とある寄り合いに参加した。
そこで出会った14歳の青年。
食事会の中で僕は酒を頂戴しながらいろいろな人と話していた。
自己紹介をぐるっと回したりしながら。
彼の自己紹介の時に、彼がポツリポツリと哲学を展開し始めた。
テーマ1「自由とは何か?」
「食べなければいけない、生きなければいけないという時点で不自由だ」といったことを言っていた。
あ、↑こんな風にまとめてしまうと14歳の哲学者に「そんな意味じゃない!」と怒られそうだが、エッセンスはそういうこと。
ちなみに、彼はシュタイナー系の教育を受ける学校に行っており、そこで不自由さを感じているようだった。
テーマ2「全てはバランスが取れている」
山登りのメタファーから話が始まり、装備をしっかりしてヒョイヒョイと山を登っていく人間と、装備がないためにジワリジワリとしか山を登れない人間とそれぞれが居る。
装備を用意した人は、その分そこに時間を使っていて他のことが出来なかったかもしれない。
装備を用意しなかった人は、その分別のことに時間を使えたかもしれない。
だから、トータルで見れば人間のシアワセはプラスマイナスゼロ。
なのに、装備を持って山をホイホイ登っていく人間ばかりが評価されている。
「人間のシアワセは結局プラスマイナスゼロだから、いつ死んだって同じ。5歳で飢えて死んでも、その先のシアワセとフシアワセのプラスマイナスはゼロなんだから、周りがとやかく言うことはない。」
そんな話だった。
主にこの二つのテーマが織り交ざって、食事会の場は14歳の哲学議論の場に様変わりしてしまった。
「山をホイホイ登っていく人が見ている景色、山をゆっくり登っていく人の景色、それぞれ違う感じ方が出来るはず。山に早く登るだけが良いこと、評価されることではなく、それぞれの多様性が大切なんじゃないか?」
「5歳で死んで行く子どもが居る現実。もっと人生を味わう愉しむ自由があって良いのではないかな?それを奪う自由は他の人にはないのでは?」
そんな話を僕はしていた。14歳に対してややムキになりながら。
「全てはバランスなんだよ」と言われてしまい、その先の話が展開できないもどかしさ。
感じるのは全てはバランス、の裏返しは「何をしても無駄」というnon-phylosophical nihilismの匂い。
『オイオイ14歳からそんなニヒリスティックになってはもったいないよ。人間の意志や意識、主体性をもっと評価して欲しいなぁ』そんな僕の心の叫びは通じただろうか?
議論がヒートアップしたところで、差し水なども入って鎮火。
何で、あんなにムキになって議論をしたのだろうか。
後で参加者の一人にこう言われた。
「あ~あ、なんか男性的なエネルギーが強かったなぁ。何で男の人ってああやって論理や理詰めで話をしたがるんだろうねぇ?かなり、どっちでも良いような話なのにさ」と。
一蹴。
言われてみれば、14歳の世界観と世界像を倍以上生きている人間の世界観と世界像が襲っているような構図だったのかもしれない。
説得しよう、ねじ伏せようなんて気はさらさらなかった、と、本当に言えるだろうか?
相手の話に耳を傾けること、相手の気持ちや言いたいことを汲み取って、言葉を届けること。
できていなかった。
何だか、後味の悪い場になってしまった。
「うるせぇよ、おっさん」
僕が逆の立場だったら、そうつぶやいてたかもなぁ。
