サティシュ・クマールの世界観
久々に酒や音楽に時間を使うよりも「本を読み進めたい」という感覚になった。
サティシュ・クマール(2005)『君あり、故に我あり』東京:講談社学術文庫
以前から良い本だと何となく聞いていたが、ようやくたどり着き、一気に読んだ。
今まで僕が読み溜めてきた主に西洋的と言われる世界の思想や視点、世界や社会の捉え方、いのちの在り方、そこに決定的に欠落していたのは「自然との有機的な関係」だったのかもしれない。
あるいは、自分自身が都市に住み暮らしていたため、自然との関係ということが全く実感できていなかったのかもしれない。
今、日本の農山村に居を構え、日々自然の中に身を置きつつ田畑に働きかけている自分がいる。
その自分に、サティシュ・クマールの言葉の多くがスーッと無理なく入ってきた。

現代のガンジーとも評される彼の思想の核には「soil(土) soul(心) society(社会)」という3つの要素が三位一体となった考え方がある。
アメリカの大志である「生命、自由、幸福の追求」、フランス革命時の「自由、平等、博愛」、あるいはニューエイジの「ボディ、マインド、スピリット」も影響力を持っているが、社会と自然との多様な関係性の中で生きていく世界観や精神性までを表現し切れていないという。
彼の議論を簡単にまとめてみよう。

土(soil)があるから、私たちは食べもの育てられ、家を建てる材料や暮らすために必要な燃料を確保でき、文化や芸術はインスピレーションを得られるという。
「土は地球を象徴し、生命を支え、空気や火や水を宿す。私たちの暮らしは土に依存している。土は単に効用のあるものという以上のものであり、生命の象徴なのである」(135-6)。
人間は自然の一部であり、土や地球はそれ自体神聖なものでもあり、その土や自然を育てること、心遣いをすること、感謝や畏敬の念を持って暮らすことは「私たちの責務」であるという。
土を育てることは「ヤグナ」、失われた分を補うこととも言われている。
クマールはこの考え方を「敬虔なエコロジー」と称している(136)。
自然は人間の外部にあり、資源として捉えられ、無限に開発され利用される対象という考え方とは明らかに一線を画している。
土の次には、社会(society)を育てることが大切とのことだ。
クマールによれば「ダーナ(与えることと受け取ること)に基づいた社会の秩序を意味し、相互利益と相互関係を意味する」(139)。
私たちの存在は、これまでの知的、文化的、宗教的な蓄積や財産によって、その関係性によって成り立っているということだ。
「そのお返しに、私たちは自分の仕事や創造性、芸術や手仕事、農業や建築を、社会の今と未来の世代に対する贈り物として差し出すのである」。
これは、個人主義や利己主義的な考え方、自己中心的な発想とは大きく異なる。
存在を成立させる関係性の総体としての社会へ贈り物や恩恵をどんどん返していくことを意味しており、「与えること」が前提となっている。
「それはまるで、たえず流れる川のようだ。支流の一つ一つが流れ込み大いなる川となる。私たちは時代と文化の大いなる川、人間性の川に流れ込む支流なのである」(140)。
土と社会に活力を与えながら、心(soul)にも活力を与える必要があるという。
不安、恐れ、怒り、嫉妬、欲望、それらは心を疲弊させ、傷つけ、腐敗させている。心が満たされ、平穏になるためには、自分の心を癒し、浄化する必要があるという。
これは、タパス(自分に栄養を与えること)と呼ばれる実践となる。
孤独になること、矛盾に満ちた世界から一時的に距離を取ること、普段より少なく食べたり断食すること、度を越えた消費を慎むこと、謙虚であること、奉仕すること、学ぶこと、眠ることなどがタパスに当たるという(143-4)。
土(soil)、心(soul)、社会(society)、この三つを個別に扱わずに三位一体で捉える世界観には「全体性」が内在しているという。

この全体性が細切れになってしまっていること、いのちの存在が関係性の中で成立していることが感じられていないことが現代社会の不幸ということだ。
関係性の中で、いのちが成立しているということを端的に表現すると「君あり、故に我あり」ということなのだ。
現代社会の中で、日増しに強くなり、人々の意識と実践に染み付きつつある「競争原理」「弱肉強食」「勝ち組み負け組み」といった発想とは違った枠組みの発想だ。
以前の僕がこの本を読んでも「フーン」と思うだけだったかもしれない。今回は、何故か「なるほど、これは面白い。フムフム」と久々にすがすがしい気持ちになれた。
自分のいのちのあり方を意識しながら読む価値のある本だ。