ウインドファームというフェアトレード・コーヒー会社のスタッフである僕は、
週に一度は本社で勤務する。
今は、社用車が無いため、途中駅で同僚のYさんに車でピックアップしてもらう。
社中での彼との対話はいつも刺激と発見と驚きと笑いに満ちている。
「あのさぁ、お金のない世界になったとしたらさぁ。ごとー君は何する?今の仕事続ける?」
彼との対話は大抵、唐突な問い掛けから始まる。
お金のない世界では、仕事の対価は報酬ではない。仕事は社会への奉仕のためにある。
「百姓仕事をするかなぁ。自給自足が出来れば無敵ですからねぇ」
「うーむ、コーヒーの仕事も求められればするかなぁ」
「スロービジネススクールの仕事は必要性があるかもねぇ」
何て、アレコレ考えながら話をする。
で、結論。
「まぁ、対価が報酬だろうが、社会への奉仕だろうが、あんまり関係なさそうだなぁ。
強いて言えば、あきらごとうを生き抜くことかなぁ」と。
「相変わらず、君は僕の質問にそっけない答えばっかりするよねぇ。
パートナーのKさんもそうなんよねぇ。
『ふーん、別に今と変わらない暮らしをするけどね』だってさぁ。」
と、ちょっと不満そうである。
話しながら分かったことは、「ああ、僕はお金のために働いているという感覚は持っていない」ということ。これに関しては、結局Yさんもそうだ。
前職の書籍営業農家回りの時も、カネのためという感覚は無かった。
そんな風に思えること自体が幸せなのだろうか?
多分、そうだろう。
でも、カネなんて、いつ何時紙切れ以外の何物でもなくなるか分からんよ。
お金は食べられないしさ。
仕事をしてそれなりに現金が回ってきて、生活が回る。
田舎に暮らし、田畑に働きかけ、恵みを享受し、
不要なものはなるべく家におかず、
身近にある資源を活用して暮らす。
生活基本コストは相当低い。
「これで充分」という感覚も意識的に大切にしている。
そんな暮らしをしていたら、「必要なものって案外少ないなぁ」としみじみ思う。
不要なものをトコトン削ぎ落としていったら、どうなるのだろう?
ふと、そんな思考が降ってくる。
生きること
いのちの在り方
実は、とてもシンプル極まりないことなのではないか。
そんなことを、時々ふと思う。
田んぼの畦草を刈り払った後で、汗だく。
軽くサッカーでもした気分。
ゆっくりと暮れていく西の空の夕焼けとモクモクと立ち上がる雲を見ながら、
「ふふふ、きれいだなぁ」とこころ踊っている。
「これで充分」