アナポリス中東和平国際会議でイスラエルとパレスチナの和平交渉が7年ぶりに再開することが決定した。アメリカの仲介により開催されたこの会議が国際的に華々しく報道される一方で、ガザ地区に暮らすパレスチナの人々の生活の様子は(特に日本では)ほとんど伝えられていない。
ここ数ヶ月、日本ではペルシャ湾岸の自衛隊による米軍への給油問題や、ミャンマーでのフリージャーナリスト虐殺事件の報道に注目が集まった。ところが、その影でパレスチナの人たちの生活・生命の危機は一刻の予断も許さない状況にまでに悪化してきているのだ。
その主要因は、イスラエル政府によるガザ地区の経済封鎖だ。イスラエル軍によるロケット砲による攻撃も断続的に続けられている。経済封鎖は、日本ではせいぜいイスラエルによる自衛権の行使としてくらいしか受け止められておらず、子供や病人の命が危険な状況に追い込まれていることが報道されることは稀だ。
そんな主要メディアでは伝えられないパレスチナの人たちの状況を、現地で活動するフリージャーナリスト、NGOスタッフたちの手記が伝えている。
西岸地区に在住するオーストラリア人のKim Bullimoreは、palestine chronicleでその状況を説明している(Abbas' Road to Capitulation: Annapolis and Beyond 2007/11/26)。それによれば、パレスチナの状況は政治的・人道的両方の面において悪化の一途をたどっている。ガザの国際的な封鎖や、イスラエルによる住民への不法な罰則が繰り返されてるが、その結果、食料品の価格は高騰している。さらに、食料品、医薬品、建築材などが入手できない状態になっている。国連によれば、91品目の医薬品の備蓄が底をついたという。いくつかの病院では、小児医薬品の備蓄がなくなり、がん治療、人工透析などに必要な医薬品が不足していると伝えられている。人工透析に関しては、必要な医療機器が不足しているという。
国境閉鎖は命に危険があるほど緊急な治療が必要なパレスチナ人が確認されている。そのうちの二人のがん患者は、イスラエルの秘密警察によってイスラエルやエジプトへの入国を拒否された。イスラエル、エジプト、ヨルダン、西岸地区への病院へのアクセスを拒否された患者は他にも十数人いるとされている。国境の封鎖により治療が滞っている状況は、「国境なき医師団」でも報告されている(パレスチナ:MSFフランス支部事務局長へのインタビュー 2007/11/19)。
そして、多くの男性が失業状態にあり、職があったとしても数ヶ月もの間、賃金が支払われていない例も多いという。「経済封鎖以来、人口の70%は貧困の最低水準、つまり1日1人当たり2米ドル(約230円)以下で生活しており、失業率は人口の60%に達しています」。そんな状況下で、Israeli Occupation Forcesはガザへの空爆・攻撃を続け、パレスチナ人を無差別に殺害。10月だけで30人以上が殺されたとKim Bullimoreは伝えている。
アナポリス中東和平国際会議は、こうした現状の中で行われてる。主要マスメディアは今回の会議の成果については懐疑的ではあるが、各国首脳の思惑を推測し分析することに終始している感がある。しかし、メディアがいくら批判したとしても、実際の状況を見ずにPeace(和平・平和)を語ったとしても身のある内容にはならないのではないだろうか?
『若者はなぜ3年で辞めるのか?』をどう読むか?
『若者はなぜ3年で辞めるのか?』を書いたのは人材コンサルタントの城繁幸。東大法学部から富士通に入社して人事に携わる。富士通で新人事制度が導入された直後からその運用にかかわり、退社後に成果主義の矛盾と内部崩壊の様子を著書にまとめて話題になった。
この本は多くの格差社会論とは趣を異にする。一般的な格差否定論では、これまでの日本の労働環境が崩壊し、グローバル化やネオ・リベラリズムが社会的格差を生み出し、その結果、若者に負担がかかっている論じるものが多い。フリーターやニートの増加、派遣労働でいくら働いても楽になれない状況、リストラの横行、その結果としての貧困層の増大。こうした社会状況を生み出した元凶として、構造改革を実行した小泉純一郎や竹中平蔵が批判の矢面に立たされる。
しかし、本書はまったく反対の視点から論じている。労働の場で若者が搾取されるのはグローバル化や構造改革の影響ではない。むしろ、いまだに年功序列を軸とした従来の労働環境が根強く残っているためで、成果主義の導入や派遣労働者の増加は、その体制の生き残りのために仕掛けられたに過ぎないというのだ。しかるに、格差否定論は原因と結果を読み違えていると指摘する。
因果関係はどうあれ、若者に負担がかかっている現状は厳として存在する。それでは、それを乗り越えるための、新しい社会のビジョンを著者はどのように描いているのか?前置きが長くなったが、そこを見ていくことにしたい。
若者に負担を強いる昭和的価値観
『若者はなぜ3年で辞めるのか?』は安直な「若者論」ではない。このタイトルは“釣り”的な要素が強い。「最近の若者はけしからん」とする年長者たちが思わず手に取ってしまいそうなタイトルではあるが(おそらくそれが狙いなのだろう)、その内容は年長者に対して手厳しい。
就職氷河期を乗り切り、意識が高く優秀であるはずの人たちが仕事をやめていく。その原因は、単に若者がわがままになったとか、忍耐が足りなくなったとか、そういう単純なものではない。年功序列に代表される「昭和的価値観」が年長者に有利な世界であり、自らが生き残るために若者に強く負担を強いていることに問題があると指摘する。
その事例として著者は派遣社員の例を挙げている。平均年収は300万円程度。同じ年の正社員の7割程度の年収で、上から降ってくる単純作業の繰り返し。その上、賞与も社会保険も、退職金もない。不要になればすぐに切られる存在…
年齢を重ねた人間が頭を使うポストにとどまり、多少の減収はあっても自分の取り分をきっちり守るために、派遣で働く若い人たちに犠牲を強いる。派遣業法の改正が行われて規制が緩和された背景には、このような「昭和的価値観」にしがみつき、既得権益を保持している人たちの利害が絡んでいる、というのが著者の考えだ。
さらに、著者はかつての日本の年功序列制度は人に優しい制度だったという言説を否定する。成果主義が普及し、将来にわたっての雇用が確保されないような世知辛い今日とは異なり、年功序列の頃はみんな幸せだったという話を聞いたことがあるだろう。しかし、著者は本当にみんな幸せだったのか?と問う。確かに、企業が用意したレールに上手に乗れた人たちにとっては、幸せな制度だったかもしれない。
しかし、かつては既卒という立場で就職活動する人に対しては採用の門戸を閉ざしていたし、現在でも一度フリーターになってしまった人たちへの再就職には応じていない。新卒⇒正社員というレールに一度でも乗り遅れてしまった人間は、二度と正社員のレールには乗れなくなってしまう可能性が高い。「人に優しい」はずの列車は、こうして乗り遅れたものを切り捨てながら走り続けていく。
多少、議論の展開が強引なところもあるが鋭い指摘だと思う。
働く理由を自分で見つける
この本では、昭和的価値観に縛られた年功序列型の会社を飛び出して、“レール”のない社会で自分自身の新たな歩みを始めた人たちが紹介されている。大手の生命保険会社の社員から政治家を志した人、ソニーを退職し新しく会社を興した人、フリーター&借金生活から編集の企業を立ち上げた人。「彼らの話を聞いていると、人が生来持っているはずの“働く理由”が、うっすらと見えてくる。政治から趣味まで、一見すると彼らの行動基準はてんでばらばらだ。だが三名とも、常に自分の動機と真剣に向き合っていることがよくわかる」(p209)。
城が言う昭和的価値観を捨て去ったとき「自分で道を決める自由」という貴重な宝物が手に入るという。いまや転職市場が花盛りで、華やかなうたい文句につられて「なんとなく」転職してしまう者も確かに多い。その挙句、転職した先で再び組織の悪口を言い募る… しかし、城に言わせれば、これは自分の動機がしっかり見えていないためだという。結局は転職先で組織に頼ってしまっている例が少なくない。
働く理由を見つけ、自分自身の動機を大切にすること。自分の動機にそむいてまで組織にとどまるよりも、納得がいくまで自分自身に向き合う方が、周囲にはいい影響を与えうる。城は今後の社会に対するビジョンをそのように描いているのではないだろうか?
社会とどう向き合うか?
私も大学院を修了して、いわゆる「既卒」の立場で就職活動をしていた時期がある。門前払いはあたりまえ。なんらかの手違い(!?)で面接にたどり着けたとしても、面接が始まった瞬間に書類を片付けられることもあった。おそらく、最初から採用するつもりはないのだろう。
そんな思いをして無理に既存のラインに入り込むよりも、自分の問題意識にしたがって仕事をした方が結果的に身に付くものは多いということを肌身に感じている。そうだから、著者が描くビジョンには説得される面がある。山田昌弘のように政策論に還元するのではなく、ビジョンの提示という意味では人材コンサルタントの著者の方が大きな意味を持つと思う。
ただし、自分たちの動機に基づいて行動することが、社会全体で見たときに最適な状況に導かれるとは限らない。グローバル化やネオ・リベラリズムが社会の格差や貧困を生み出す状況にある今日、無自覚に個々人が“going my way”で突き進んだ結果、格差がいっそう拡大して「上」と「下」の分裂が生じ、パブリックな空間が断絶してしまう可能性も大きい。
上流階層と一般階層の人々を隔てるアメリカの「要塞都市」は、ビジュアル的にも分かりやすい例だが、目に見えない領域での断層は常に起こりうる。
自己の動機に基づいて行動する個人が社会的な意識をどう持つか?このビジョンの成功はそこにかかっているのではないだろうか?
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東京学芸大学教授の山田昌弘氏の著書『希望格差社会』。2004年に出版されその都市のベストセラーになり「格差社会」が流行語になるなど、その後の格差社会論のさきがけになった著作だ。
今回はこの『希望格差社会』がいわゆるニュー・エコノミーや新自由主義へのオルタナティブをどのように提示しているのかを明らかにしてみたい。グローバル化に伴う格差や貧困、9・11後の圧倒的な暴力を目の前にして、オルタナティブな社会ビジョンをどのように構築していくかというのが私個人の関心事でもある。多くの論者がグローバル化の弊害を論じているけれど、それに替わる社会のあり方はまだまだ模索中といったところだろう。
少々強引に『希望格差社会』の内容を要約すると以下のようになる。1990年代以降、世界的規模での経済の構造的変化が見られた。アメリカを中心としたニュー・エコノミーが世界中に浸透し、先進国ではリスク化(不安定化)・二極化が全般的に進んでいる。その結果、将来に希望が持てる人と将来に絶望していく人に分裂していく「希望格差社会」が到来している。
この中で著者は「人並みの生活ができなくなる危険性」という意味での「生活リスク」という言葉を用いている。その生活リスクが普遍化したのが現代の特徴だという。例えば、1997年の金融危機などの影響で一流銀行でも倒産するリスクがある、犯罪が横行して日本中どこにいても犯罪に巻き込まれるリスクがある、食料品メーカーの不祥事などで一流ブランドの食品さえも安全でないという事情がそこにはある。日常生活を送る限りリスクをとらざるを得ない状況。それがリスクが普遍化した社会だ。
リスク化と平行して、現代では「二極化」も進んでいる。二極化とは生活水準の格差拡大のことで、格差拡大が進んで「中」がなくなり、上と下に別れていくイメージとされる。ただし、著者は二極化には収入の格差という数値で表せる量的な格差だけでなく、質的な格差も含まれるとしている。例えば、正社員とフリーターでは単なる収入格差以外に、将来の生活の見通しにおける「確実さ」に格差が出てくる。そのような心理的格差=希望格差が今日の大きな特徴であるという。
著者はこのような特徴が「職業」「家庭」「教育」といった生活のあらゆる領域に及ぶことを指摘して具体的な対策を提案している。不安定化している社会をどうコントロールするのか?自己責任の強調、規制緩和、自由の拡大を主張するネオ・リベラリズムも、過去に存在した安心社会の復活のどちらも否定する。
とはいうものの、著者の具体案についてはこのブログの問題意識から外れるので詳細には論じないことにする。私が関心があるのは、むしろ彼が目指す社会が前提とするものである。彼が求める社会の根底に何があり、どこに問題があるのか?次回はその点について考えてみたい。
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7月1日は年に1度のカナダデー。カナダの独立を記念したイベントが各地で開催されている。休日のこの日は、カナダの国旗をモチーフにした服装をして、街の中心に集まってくる。
移民のニューカマーも含めて、カナダ国民であることの喜びを表現する日だったりもする。印象的だったのは、テレビでインド系の移民に対し、「どうしてカナダに?」という街頭インタビューをしているシーン。彼がカナダを選んだ理由を聞くことで、カナダの偉大さを再認識する儀式でもあるようだ。
その一方で、この日の前日には土地の収用をめぐって、ネイティブの権利を主張するデモも行われた。ネイティブとの軋轢が表面化してきたりもしている。
カナダのネーションは包含的で多様で柔軟性がある一方で、どこか排他的で圧力的な部分も存在する。とても不思議な国だ。
新自由主義的改革を進めたイギリスのサッチャー時代、その改革を正統化するのにthere is no alternatives(他に選択肢はない)というキャッチフレーズが使われていました。経済の合理性と効率性を根拠に、「構造改革」以外に選ぶべき道は存在しないというのがその主張の中心にあります。
もちろん、現在ではこうした改革が世界的な格差やひずみを生み出し、弊害をもたらしていることが明らかになっています。しかし、20世紀後半、新自由主義的政策を選択することが、あたかも必要であり、必然であり、それを選ぶ以外に道はないという決定論的主張がアメリカ、日本、イギリスで広く普及していきました。
「人がどうあがいたところで、すでに未来は決定されている」
こうした考え方に直面したとき、各人の問題意識は一気に無力化されていくのではないでしょうか?
鈴木謙介の『ウェブ社会の思想』は、ユビキタスやWeb2.0の思想や仕組みにも同様に決定論的な言説が影響力を持っていると論じています。
ここ数年、ユビキタス社会やウェブ2.0と呼ばれる新しいテクノロジーやサービスが普及しています。それらは、各人の行動履歴・属性などの個人情報に基づいた膨大なデータベースを参照して、人が考えなくても素早く最適解を導き出してくれる一つの道具です。日本の政府もこうした動向にいち早く着目し、その普及に努めています。
しかし、鈴木氏は、このような社会では、蓄積された個人情報に絶対的な重みが置かれ、結果として各人が選ぶべき未来が宿命的に提示されていると主張しています。その結果「それ以外の未来があり得たことが私たちの生から抜け落ちていく」と述べています。
それでは、どうすれば宿命を抜け出すことができるか?
その答えを鈴木氏は他者とのつながりに見出します。自己は、バックグラウンドや立場が異なる「他者」と関わることで、自分にとって自明の閉じられた事実を生き続けることが不可能であることに気づかされると言うわけです。
ユビキタスやWeb2.0社会では、個人情報を中心とした膨大なデータベースをもとに最適解が導かれます。未来の選択が過去の自分の行動からあらかじめ決められた「最適解」が提示され、それを受け入れていく… そうした未来像が著者により描かれているわけですが、提示された未来を宿命的に受け入れることなく、それを乗り越えていく「可能性」を提案しています。それが、他者との関わりであるということなのです。
ただし、他者との関わればそうした問題が解決されるわけではなく、あくまで可能性の一つと考えた方が正解でしょう。他者との関わり次第では、個人をより内向的にする可能性だってあるわけですし、他者と自己との埋めがたい差異に絶望してしまうことだってありうるわけですから。
『ウェブ社会の思想』の印象としては、情報社会の分析をするのに、サブカルチャー分析をメタファーとして強引に使っている感があり、若干冗長に思えたのも確か。一般の読者に届けたいということだとは思いますが、民主主義理論の内容や、情報社会の分析にもう少し踏み込んでもらいたいところではありました。
ただ、全体的にユビキタスやWeb2.0が抱えている問題を的確に描き出し、宿命にとらわれない、社会の「主体的な」組み換えの可能性・方向性を示している点では参考になりました。
ちなみに、googleは2007年に、過去の検索履歴をもとに、ユーザーによって異なる検索結果を提示する「パーソナライズ」機能をリリースしました。同じキーワードで検索しても、検索結果はAさんとBさんとでは違うものになります。そして各自にレコメンドされたサイトにアクセスするわけですが、そのサイトにアクセスすることはすでに決められていたことなのか?それは自分が望んでいたものなのか?あるいは、自分以外の大きな力によって選択させられているだけなのか?そもそも、それ以外を選択する可能性はなかったのか?googleのパーソナライズ機能は、そのような「未来の選択」について大きな課題を投げかけています。
これまでgoogle批判の中心はその一極集中・ヘゲモニーに対するものでした。そうした問題も大事ではありますが、googleはあくまでも一つの企業であり、インターネット全体ではありません。いまのWeb2.0を考える際には、情報社会における選択と自己の主体性にまつわる問題を考えていく必要があるでしょう。
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「インターネットには可能性があると考えます」と主張すると、どうもインターネット賛美論者に誤解されることもあるようだ。
私個人としては、単にインターネットの道具としての価値を尊重しているわけではありません(インターネットの道具としての価値を尊重する立場は、新しいインターネットテクノロジーの発明が、それ自体で生活を豊かにしてくれると考える傾向にあります)。
ましてや、お金儲けの道具として利用しようとしているわけでもありません(この考え方は、とりあえずお金持ちになりたいと考えて、その手段としてインターネットに飛びつくような人たち。インターネットよりもお金がすきという立場)。
正直言って、別にインターネットでなくても私は何でもいいわけです。つまり、そこで一人ひとりが発言できて、考えやイシューを伝える場所を作れるかどうかが大事なのであって、必要であれば新聞も作るし映画も作る。紙芝居だってかまわないかもしれません。
目的はインターネットを社会に普及することでも、蓄財をして海外の豪邸に住むことでもありません。私が「インターネットの可能性」と言うときには、そういうことだということを思ってもらえれば幸いです。
次くらいからそろそろまともに記事を書いていきますか
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ブログという形式を使って思索を行っていこうと思う。
「思索」とは言ってみれば「試作」であり、つまりは試みの思考に過ぎない。しかし、これまでのパブリッシングの世界には、authorは完成品を提供しなければならないという暗黙の“掟”が存在していたように思う。そこでは、途中の段階で発表することは決して許されないことだろう。
けれども、実際に社会をプロブレマタイズして変革していく作業は、もっとリフレクシブなものだ。それは、個人の作業ではなく、コミュナルなプロセス。一つの思考やイシューは、それが個人によって発せられたものであっても、多くの人々と交わることに深化し、より大きなうねりとなることもある。メッセージは一方向に伝達されるだけでなく、双方向に絡み合いながら、そして時に誤解や葛藤を繰り返しながら「生成されていくもの」という側面もあるだろう。
インターネットという手段を使うのも、この思考の「プロセス」を大切に感じるからだ。これまで私は個人的な活動として、フォトジャーナリストの写真展や、若手の写真家と自費出版など、オルタナティブなメディアにかかわってきた(もちろん、わざわざ「オルタナティブ」を選んだのではなく、自分たちの思いや主張を伝えようとする既存の手段がなかったからに過ぎないのだが)。もちろん、その「プロセス」は目に見えないものだし、定量的なものではないし、さらには決して終わることのない(時にむなしい)作業だ。
インターネット空間に社会をプロブレマタイズする可能性を見出し、そこで思考のプロセスを起動させることが今回のプロジェクトの個人的なイシューだ。私のこのような考え方の背景には、一人ひとりのイシューや思考は、社会をプロブレマタイズし、やがては世界を変革するパワーをもつという認識があると思う。
しかし、一人ひとりのパワーを発揮するには、私たちが彼らの声を「聞くこと」が大切だ。世界には発言する機会に恵まれている人と、そうでない人がいる。ブッシュの発言は大小さまざまなメディアで取り上げられるのに、アフリカで虐殺される人々の声はほとんど取り上げられることはない。
それでも、本来、一人ひとりの声がもつ価値に優劣はないと思う。大切なのはその声を聞き、それに対して応答する意思があるかどうかだ。それさえあれば、どんな人の声でもこの社会で影響力を持ちうる。
もちろん、そこでは誤解も生じることもあるし、コミュニケーションに力関係が入り込むことも容易に想定される。でもそれは、私たちがそうした問題に対して常に批判的であり、その改善を検討し、そこに関わる意思を持ち続ければ良いだけの話ではないか?
とにかく、今回のプロジェクトを進めていこうと思う。どこまでの広がりを持たせ、どのような関係を築いていくか?いろいろ試行錯誤してみようと思う。








