東京学芸大学教授の山田昌弘氏の著書『希望格差社会』。2004年に出版されその都市のベストセラーになり「格差社会」が流行語になるなど、その後の格差社会論のさきがけになった著作だ。
今回はこの『希望格差社会』がいわゆるニュー・エコノミーや新自由主義へのオルタナティブをどのように提示しているのかを明らかにしてみたい。グローバル化に伴う格差や貧困、9・11後の圧倒的な暴力を目の前にして、オルタナティブな社会ビジョンをどのように構築していくかというのが私個人の関心事でもある。多くの論者がグローバル化の弊害を論じているけれど、それに替わる社会のあり方はまだまだ模索中といったところだろう。
少々強引に『希望格差社会』の内容を要約すると以下のようになる。1990年代以降、世界的規模での経済の構造的変化が見られた。アメリカを中心としたニュー・エコノミーが世界中に浸透し、先進国ではリスク化(不安定化)・二極化が全般的に進んでいる。その結果、将来に希望が持てる人と将来に絶望していく人に分裂していく「希望格差社会」が到来している。
この中で著者は「人並みの生活ができなくなる危険性」という意味での「生活リスク」という言葉を用いている。その生活リスクが普遍化したのが現代の特徴だという。例えば、1997年の金融危機などの影響で一流銀行でも倒産するリスクがある、犯罪が横行して日本中どこにいても犯罪に巻き込まれるリスクがある、食料品メーカーの不祥事などで一流ブランドの食品さえも安全でないという事情がそこにはある。日常生活を送る限りリスクをとらざるを得ない状況。それがリスクが普遍化した社会だ。
リスク化と平行して、現代では「二極化」も進んでいる。二極化とは生活水準の格差拡大のことで、格差拡大が進んで「中」がなくなり、上と下に別れていくイメージとされる。ただし、著者は二極化には収入の格差という数値で表せる量的な格差だけでなく、質的な格差も含まれるとしている。例えば、正社員とフリーターでは単なる収入格差以外に、将来の生活の見通しにおける「確実さ」に格差が出てくる。そのような心理的格差=希望格差が今日の大きな特徴であるという。
著者はこのような特徴が「職業」「家庭」「教育」といった生活のあらゆる領域に及ぶことを指摘して具体的な対策を提案している。不安定化している社会をどうコントロールするのか?自己責任の強調、規制緩和、自由の拡大を主張するネオ・リベラリズムも、過去に存在した安心社会の復活のどちらも否定する。
とはいうものの、著者の具体案についてはこのブログの問題意識から外れるので詳細には論じないことにする。私が関心があるのは、むしろ彼が目指す社会が前提とするものである。彼が求める社会の根底に何があり、どこに問題があるのか?次回はその点について考えてみたい。
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新自由主義的改革を進めたイギリスのサッチャー時代、その改革を正統化するのにthere is no alternatives(他に選択肢はない)というキャッチフレーズが使われていました。経済の合理性と効率性を根拠に、「構造改革」以外に選ぶべき道は存在しないというのがその主張の中心にあります。
もちろん、現在ではこうした改革が世界的な格差やひずみを生み出し、弊害をもたらしていることが明らかになっています。しかし、20世紀後半、新自由主義的政策を選択することが、あたかも必要であり、必然であり、それを選ぶ以外に道はないという決定論的主張がアメリカ、日本、イギリスで広く普及していきました。
「人がどうあがいたところで、すでに未来は決定されている」
こうした考え方に直面したとき、各人の問題意識は一気に無力化されていくのではないでしょうか?
鈴木謙介の『ウェブ社会の思想』は、ユビキタスやWeb2.0の思想や仕組みにも同様に決定論的な言説が影響力を持っていると論じています。
ここ数年、ユビキタス社会やウェブ2.0と呼ばれる新しいテクノロジーやサービスが普及しています。それらは、各人の行動履歴・属性などの個人情報に基づいた膨大なデータベースを参照して、人が考えなくても素早く最適解を導き出してくれる一つの道具です。日本の政府もこうした動向にいち早く着目し、その普及に努めています。
しかし、鈴木氏は、このような社会では、蓄積された個人情報に絶対的な重みが置かれ、結果として各人が選ぶべき未来が宿命的に提示されていると主張しています。その結果「それ以外の未来があり得たことが私たちの生から抜け落ちていく」と述べています。
それでは、どうすれば宿命を抜け出すことができるか?
その答えを鈴木氏は他者とのつながりに見出します。自己は、バックグラウンドや立場が異なる「他者」と関わることで、自分にとって自明の閉じられた事実を生き続けることが不可能であることに気づかされると言うわけです。
ユビキタスやWeb2.0社会では、個人情報を中心とした膨大なデータベースをもとに最適解が導かれます。未来の選択が過去の自分の行動からあらかじめ決められた「最適解」が提示され、それを受け入れていく… そうした未来像が著者により描かれているわけですが、提示された未来を宿命的に受け入れることなく、それを乗り越えていく「可能性」を提案しています。それが、他者との関わりであるということなのです。
ただし、他者との関わればそうした問題が解決されるわけではなく、あくまで可能性の一つと考えた方が正解でしょう。他者との関わり次第では、個人をより内向的にする可能性だってあるわけですし、他者と自己との埋めがたい差異に絶望してしまうことだってありうるわけですから。
『ウェブ社会の思想』の印象としては、情報社会の分析をするのに、サブカルチャー分析をメタファーとして強引に使っている感があり、若干冗長に思えたのも確か。一般の読者に届けたいということだとは思いますが、民主主義理論の内容や、情報社会の分析にもう少し踏み込んでもらいたいところではありました。
ただ、全体的にユビキタスやWeb2.0が抱えている問題を的確に描き出し、宿命にとらわれない、社会の「主体的な」組み換えの可能性・方向性を示している点では参考になりました。
ちなみに、googleは2007年に、過去の検索履歴をもとに、ユーザーによって異なる検索結果を提示する「パーソナライズ」機能をリリースしました。同じキーワードで検索しても、検索結果はAさんとBさんとでは違うものになります。そして各自にレコメンドされたサイトにアクセスするわけですが、そのサイトにアクセスすることはすでに決められていたことなのか?それは自分が望んでいたものなのか?あるいは、自分以外の大きな力によって選択させられているだけなのか?そもそも、それ以外を選択する可能性はなかったのか?googleのパーソナライズ機能は、そのような「未来の選択」について大きな課題を投げかけています。
これまでgoogle批判の中心はその一極集中・ヘゲモニーに対するものでした。そうした問題も大事ではありますが、googleはあくまでも一つの企業であり、インターネット全体ではありません。いまのWeb2.0を考える際には、情報社会における選択と自己の主体性にまつわる問題を考えていく必要があるでしょう。
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