| 水色の向こうに見えるもの 後藤 彰 Oct/12/04 up |
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全国には49,000haの茶園があり、91,200tのお茶が毎年生産されている。 このお茶を人々はどのように飲んでいるのだろう?もっとも多いのがペットボトルの形態だろう。一日に何本も飲む人もいるのではないか?消費の変動と生産の現場はもちろん連動している。9月はお茶産地を駆け回った。京都府城陽市、奈良県山添村、三重県亀山市、四日市市、飯南町と。お茶の水色(すいしょく)や旨みの向こうに見えるもの。 一昔前までは、「日本茶」と言えば何かジジババっぽいものというイメージがなかっただろうか。紅茶やコーヒーはどこかオシャレな感じがするが、日本のお茶となると急にイメージが落ちる。煎茶、玄米茶、番茶。飲食店に入ってもそういったお茶は無料で飲めるもの、紅茶やコーヒーはお金を出すものになっている。缶やペットボトルでも「お茶をカネ出して買う」ということはそれほど受け入れられていなかった、と思う。 が、現在はお茶への需要の伸びは目を見張るものがある。特にペットボトルの伸びが大きい。変化はここ4〜5年ではないか。健康志向とCMイメージ効果が相乗しているようだ。「伊右衛門」というお茶はかなりの伸びだ。一種のブームになっている。お茶のペットボトルを街中道端で堂々と「ラッパ飲み」することすら抵抗がなくなってきている。 需要が伸びれば生産も伸びる。ある茶農家が言っていた「これほど農産物の値段が下がっている中で、景気が良いのはお茶ぐらいじゃないのかな?」と。 「いやぁ良かったね、お茶農家は景気が良くて」とはいかないのが現実。生産の現場を歩いてみるといろいろなことに出くわした。
僕自身も全然知らなかったけれども、お茶には春先に摘める一茶、その後のニ茶、番茶という段階がある。春先の若々しい茶葉はもちろん質が高い。いわゆる新茶という売られ方をする。自給茶農家は一茶しか摘まない場合も多い。一般的に番茶と言われる一茶あとのものや秋ごろの葉っぱは刈り落として茶園に戻してやることが多い。土に有機養分を戻してまたお茶を摘むという循環。 しかし、現在の需要の変化はこういったサイクルを変化させている。質の良い一茶は大抵はリーフ(急須で入れる茶葉)となるがそれが売れないのだ。売れるのは質は二の次となるペットボトル原料になる下級茶だ。ドリンク用のお茶と農家は言う。だから、最近の傾向としては「番茶も全て刈り取り問屋に売る」というもの。お茶業界では伸びているペットボトル需要に対応するために茶葉の買占めが始まっているという。「2年先の分まで買い占めようとしてるんじゃないかな?業者は足りない足りないと言ってくるんだよね。結構良い値で買い取ってくれるから番茶も今年は刈ろうかと思ってさ」。 そのドリンク用のお茶は成分を抽出し切る、搾り切る。そして、ドリンクとなる。ここで重要なのは生産量となる。生産量を上げるために茶農家は作業効率の良い機械を導入し、作付け面積を拡大する。「そうでもしなければ茶で食っていくことは大変なんだ」と。 大規模化、集約化された茶園はちょっとした違和感を僕にもたらす。まるで、工業地帯のようだ。4トンもある大型の機械が唸りながら茶園を進み、土を踏み固めていく。踏み固められた土には根が張りにくくなるという話もあれば、茶の樹と樹の間の20センチぐらいを踏み固めても問題はないという話もある。だが、大型乗用機械を入れた後では4年ぐらい経つと茶の質と収量が落ちるという話は茶農家自身から良く聞くことだ。 大規模化と関連があるのかは知らないが、茶園では相当量の農薬を散布する。虫や病気が発生するからだ。農薬を散布する農家が一番苦しい。もろに自分も薬剤を吸い込んだり浴びたりするからだ。でも、撒かないことには茶の樹がやられる。茶園を歩いていると、どう考えても茶のものではない鼻にツンとくる匂いがする。恐らく薬剤の匂いなのだろう。あまり薬剤を投入し過ぎると、茶園の土が弱る。地力が弱まれば長期的に茶の質も落ちる。 大規模化・機械化の後ろには大企業が入り込んでいる場合もある。伊藤園と契約栽培をしている農家に会った。その農家が原料を作る「お〜いお茶」は業界で圧倒的なシェアを持っている。会社側から肥料のやり方、栽培方法、農薬の散布、茶園の管理などなど事細かに指示をしてくれるという。「楽で良いし、安定的に買い取ってくれる」と農家は言っていた。自分の百姓としての創意・工夫はそれほど重要ではなくなっていくのだろうか。創意・工夫を発揮する余地はあるようだが、基本的には冒険できない。企業側も無難な路線を指示する。 穿った見方をすれば、長期的に土がどうなろうと企業の論理としては知ったことではない。1つの茶園や産地が崩壊しても、次の産地から契約栽培者を探してくれば良いからだ。農業や生活を破壊しつくされたいわゆる途上国の構造とシンクロするのは僕だけだろうか?
どんな農産物でも多分当てはまるのだろうけれども、自然や土、天気のペースに反して大量に作ろうとすれば、ニセモノになる。お茶もそうだ。奈良の茶農家でホンモノの茶を入れてもらったことがある。のどの奥に甘みと旨みが引っ付くようなお茶だ。これまで飲んだ渋味がかったお茶とは全く違う。「これがホンモノのお茶の味だよ」と。それはぬるいお湯を使い急須で時間をかけて入れなければ出ない味だ。旨い。 でも、ニセモノはやっぱり強い。安さ、手軽さ、簡単さ。三重のある地域では旨みを出すために<味の素>を添加しているという。グルタミン酸が旨み成分だから、そのまんまだ。「本当はやりたくないんだけどねぇ。共同製茶だからしょうがないんだよね。うちは自信を持って良いつくり方をしているんだけども、それが生かせないんだ」と。友人が聞いてきた話では、キレイな緑色を出すためにホウ素を添加するという。「宵越しのお茶は飲むな」と言われるほど足が早い飲み物をペットボトルに詰めて保存する。何か不気味だ。 何でそんなニセモノが幅をきかせているんだろうか。まず、消費者と生産者の間にあまりにも距離がありすぎる。消費者は生産者やホンモノの味を知らず、生産者は消費者を知らない。「自分の作ったお茶がどこの誰に飲まれているのか、1回徹底して調べてみたいなぁ」と農家はつぶやく。場所によっては農協に出したら、その先はどこへ行くやらなのだ。 次に、お茶を取り巻く文化が変ってきている。「昔は思案する必要があるときにはお茶をゆっくり入れて飲んだもんだよ。『さて、どうしようかな』ってね。そういったゆとりのある時間やゆっくりさが今の社会にはないもんねぇ。大体急須を持っていない人も多いらしいよ」。ゆとりがない。やはり、忙しさということは素敵なものをいろいろおざなりにしていく。 さらに、一部のお茶業界は「あんなもんはお茶じゃねぇ」と言いたくなるようなドリンク需要の伸びに呆けている。確かにドリンク景気は良いかもしれないが、どこまで持続的なのだろうか?その景気も大手企業がイメージ戦略でつくり上げたものだ。質や味は二の次になる。 「景気が良い」といわれているお茶業界だが、さまざまな農家に会ってみると一概に「良かったですね」とは言えない状況がある。僕が一番懸念するのは、ニセモノが繁殖して本来のお茶が失われていくこと。その味や質、それらを生み出す技術・手。そして、ゆとりを伴ってお茶を飲むという文化自体が衰退していくこと。僕らは多くの食でそういったプロセスを経験している。お茶も例外ではない。 健康志向や爽快さ志向でお茶が受けているとの話もある。それらの志向を突き詰めていけば「ペットボトルよりもリーフの方が味、質、機能の点で優れている」という当たり前の事実に突き当たらないだろうか。そこからホンモノ志向が生まれないだろうか。そういった可能性をちょっとばかり信じてみたい。巨大な動きでなくても良く、一人一人の生活がホンモノと結びついて欲しい。 |
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