岐阜 東濃地方
自給の力


後藤 彰

 岩手を回っている時に、何度か聞いたフレーズに「自給の力」というものがある。
 農家が作っている自給野菜や米に着目しろという意味だった。
 が、今思えば岩手で僕は専業農家を中心に訪ねていた。自給野菜だけを作っているじいさん・ばあさんにはそれほど注目していなかった。だから、強烈には自給の力を感じてはいなかった。
 でも、岐阜では自給の力が腑に落ちた。特に七宗町で自給野菜と米を作っているじいさん・ばあさんと良く出会った。「ここらの人は皆百姓仕事をしてるんだ。自分の食う分ぐらいの野菜と米は作ってるよ」と皆が言っていた。農業センサスデータ上では在村農家は3名とされていても、ほとんどの家が自給畑を持っており、土を耕し、野菜や米を作っている。
 あるおばちゃんと話していて100円市のことが話題になった。地域の人が自分で作った野菜を持って行きほとんどを100円で売る直売所のことだ。ナス5本が100円。「お母さんも、100円市とかに行って野菜買うんですか?」と訪ねると「いやぁ、私は行ったことないんだ」と言う。僕はびっくりした。市は出来てから5年ぐらい経っているし、何よりもすぐ近くにあるから。「えっ、全然行かないの?」と聞く僕におばちゃんは笑って答える。「だって、買う必要ないもんねぇ。自分の畑で取れるから」と。自給畑と言っても、やっぱり足りない分はちょくちょく買いにいくのだろうと思っていたが、滅多に買わないのだ。本当に。それほど広い畑と言うわけでもないが、老夫婦が食べていき、子どもや孫にお裾分けするに十分な量は採れるのだ。
 農家出身の友人が言うには農家が恥だと考えていることが2つあるという。「まず、畑を荒らして草ボウボウにしちゃうこと。そして、畑があるのに野菜を買って食べること」だそうだ。じいさん・ばあさんと話していて「先祖が残してくれた田畑を荒らすわけにはいかないから百姓やってんだぁ」ということを良く聞く。「百姓なんだから、自分の食べる野菜や米を作るのは当然だ」とも。僕が訪れた七宗町の集落は野菜と米に関しては自給率90%ぐらいいっているのではないか?いや、余った分を親戚に送ったり直売所に出すことを考えれば130%とかいってもおかしくない。日本の自給率が低いと喧伝されるが、足を引っ張っているのは明らかに都市だ。


この自給畑にどれだけの野菜が植わっているだろうか?
カボチャ(手前)、ネギ(左手前)、ヤマイモ(中央奥)、トマト(左奥)
米(奥の田んぼ)、サトイモ(右奥)、シシトウ(右中央)
写っていないが、キュウリ、キャベツ、トウモロコシ、ナスなども植わっていた。


 農村で田畑に出ているのはほとんどが60代以後のじいちゃん・ばあちゃんだ。そして、口々に言う「息子や娘は働きに出ていて田畑には出てこない。先祖から受け継ぎ守ってきた田畑だが、ワシらの代で終わりになるかもなぁ」と。そして、何とも寂しそうな切ない表情で語る。息子・娘の世代は田畑を耕すよりも簡単にスーパーなどで買える野菜を選択するという。「自分たちの作った野菜を食べてくれない」という嘆きも聞いた。曲がっていたり、虫食いの跡があったり、形が整っていなかったりするからだろうか?それが、美味しさの証拠なのに。
 

ズッキーニはカボチャの仲間
ずんぐりむっくりした丸いものもある。

 他方で、直売所ではそんな野菜が評価される。「美味しい」「新鮮」「安心」「安い」といった言葉とともに。自給畑で作って余った野菜は「いやぁ出来すぎちゃったなぁ」とかなんとか言いながらお裾分けするか、畑に投げていたという。そんな「どうせ捨てるもの」が商品となって売れる。お客さんからは喜ばれる。じいちゃん・ばあちゃんは元気になる。先祖の土地を守り、自分で食べる野菜や米を作り、他の人にも届ける。82歳のばあちゃんは「幸せだ」と言い表す。「お迎えが来るのを待ってるだけだ」とも。
 自給の力ってのは、単に生産する力ではない。自給することを通して、その人の生き方や生活が充実すること。「幸せだ」と言ってのけること。


Back>>
Home>>