姜 尚中/森巣 博 (2002) 『ナショナリズムの克服』 東京:集英社新書.


世界を駆け回る博奕打ちでチューサン階級(中学三年レベルの知識)の森巣博と政治学や文化学、社会学などに精通した姜尚中の一風変わった対談集である。内容は、それだけで読みごたえのある姜と森巣の個人史、ナショナリズム、グローバリズム、民族概念についてなど幅広い。森巣の毒舌に笑いながらも、深い洞察と知識に裏打ちされた対談を通して、現在の日本社会を理解することへと近づける対談集だ。 

現在の日本社会を理解するのに重要な流れは大きく2つある。1つはネオリベラリズムに支えられた経済的なグローバリゼーションだ。規制緩和、貿易自由化、国際産業競争力強化といった号令はこの流れの中にある。そして、もう1つは保守回帰やナショナリズムだ。国を愛する心(教育基本法の改正に盛り込まれようとした)、道徳・奉仕精神(教育改革国民会議が提唱した)、日本民族(単一民族という幻想)、国家の為に死ねるか(こうした問い掛けは近年強まっている)といった議論がこの流れを上手く表わしている。

日本社会は、政治的にも、経済的にも、文化的にも非常に苦しい状況にある。政治的な行き詰まり、経済的な停滞、文化的な退廃。「日本を何とかしよう」という反応自体には共感できるものがある。森巣自信も「愛しているんです、私は日本を、そして、ひいては世界を」(p.147) と言う。では、この社会を良くするためには上記のような愛国心や民族意識、国家への忠誠と言ったものが有効なのだろうか?

否。それ自体が恣意的に作り上げられるものであるし、排他的な動きも生みだすからだ。

「日本人」や「日本的なもの」という考え方は幻想や想像に依拠している。何をもってして「日本」というのかは曖昧でしかない。盛んに主張する人々や論客もその本質を明示できないと姜は述べる。そして、多くの人はそれを感情や心情から訴える。彼はこれを「ココロ主義」として批判している。例えば、<君は日本人として日本が好きじゃないのか?>といった感情への訴えかけは強い圧力となるだろう。<嫌なら出てけば?>といった展開も予想される。こうして、愛国心や民族意識といったものは少数者や異なる存在を排除する傾向がある。

だが、近年では「日本」を強調する人々も国家や民族が「想像の共同体」でしかないことは承知しているという。それを承知の上で、新しい神話を構築するのだという立場であるという。そして、その本質的な起源を「存在しなかった古きよき時代」(p.149)といったものに求めるということだ。だが、それは<ありもしない本質>を共有したくない人々や共有できない人々に対して排他的に働くだろう。人の移動や文化の移動が加速度を増す中で、様々な価値観や文化的な背景を持つ人間が今の日本社会にはたくさん住んでいる。日本の本質を強調しても、多様な存在を認めることはできない。時代遅れだ。正に古い。

ではどうするのか?森巣は「リイマジンド・コミュニティ」(再想像の共同体)という考え方を展開している。その共同体の中では、少数者も中心にいない存在も含めた「誰もが住みやすい社会を再想像する責任」を皆が持つということだ(p.149)。この日本社会を多様な存在が住みやすいものにしていこう。「日本を愛する」といった時、古さに固執する論客よりも、フットワークの軽い森巣や姜の議論の方がよっぽど考えが深いように思える。

 他にもアイデンティティを捉える三つの枠組みや、「ちんぽこ」モデル、一億総「在日」化、無族協和などの面白いテーマがやり取りされている。

 

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