『茶色の朝』フランク・パブロフ 物語/ヴィンセント・ギャロ 絵 大月書店(2003年)
評者: 後藤 彰
May 2004



 ある友人は大きな目を光らせながら語りかけるように話をする。「この本知ってる?とっても面白いよ。今の日本にぴったりの本かもね」と。最近、この手の薄くて、絵がたくさん載っていて、1000円ぐらいで買える本をいくつも見る。内容的には50ページぐらいだから1日あればすんなり読める。
 今の生活に漠然と不満を感じている人、今の社会になんだか違和感を持っている人、今の自分は「ほんとう」の自分とは違うとどこかで思っている人、日々が楽しいと感じる人、前の通りを歩いている人に読んで欲しい。
 なぜなら、僕らの身の回りにも「茶色」が溢れてきているから。茶色は自分で判断しない、自律的な思考をしない、許可を取らなければ行動できない、周囲の流れに逆らわない、自分を大切な存在だとは思わない、そんな、色だ。その色に自分が混じってしまえば、受け入れてしまえば、どうってことはない。楽だし。
 僕はこの本を岩手の盛岡で読んだ。盛岡の中心街もところどころ茶色だ。町並みにはたいした個性がなく、大手コーヒーチェーンのスターバッ☆スなんかが偉そうに店を構えている。街を行きかう女子高校生の髪型は驚くほど似ている。何かの流行だろうか?今、僕は仕事の研修をここで受けているのだが、「労働者の権利」なんてことは微塵も考えさせない。管理、命令、ノルマ、業績、時間の収奪。そういった組織の仕組みの中で僕を含めてほとんどの同期は「許可を取る」ことが当然になってくる。自分で判断せずに、「〜しても良いですか?」と。許可が得られれば良いという茶色の自由。
 これは、「自己責任」を突き付けて自由な行動を規制しようとする風潮と重なるものがある。
「まあ、仕方がない」
「現実は厳しい」
「食っていくのは大変だ」
「気にはなるけれども、そこまで構っていられない」
「嫌なら自分でリスクを背負うんだな」
 自己責任を押し付けられ<何もしない>という「不作為」には応答可能性(responsibility)の欠如が付随する。それ自体が茶色であることにつながっている。自分自身の心や価値観、大切なもの、個性、主体性への応答可能性。この物語は茶色を超える色を提示しているだろうか?あなたはどんな色を物語の中から外に向けて見るだろうか?その色はあなた自身の色でしかなく、それぞれが自分の絵の具をごちゃごちゃ混ぜた色を創れば良い。その色が美しいと素敵だ。



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