| 内橋克人 (2003)『もうひとつの日本は可能だ』東京:光文社 | |
| 経済的なグローバリゼーションの下で、現在の日本社会はいわゆるネオリベラリズム(新自由主義)に大きく影響されている。「規制緩和」、「貿易自由化」、「市場での自由競争の強化」、「痛みに耐える」といったことが喧伝され政策として実行されている。小泉首相による「改革」の絶叫も同じ流れの中にある。これらの考え方や政策は経済を活性化し、人々の生活をより良くすると言ってきたが、現実を見るとどうもそうではないようだ。内橋はこのネオリベラル的な日本社会の動きを批判し続けてきた。 語るには比較的難しい事柄であるが、内橋はあくまでも平易な言葉で社会状況やそこにどういった事柄が隠れているかを説明している。経済音痴にも分かる説明の仕方だ。 何故に今「もうひとつの世界」や「もうひとつの日本」が必要なのだろうか?今の世界や日本のあり方が社会的公正や自然環境という視点から見てドン詰まりだからだ。人間が蔑ろにされる仕組みなのだ。 例えば、アメリカの経済は「軍産コングロマリット」による影響が大きい。9・11後に米国防総省はロッキード社に「次世代主力戦闘機JSF」を2000億ドル=25兆6000億円(当時換算)発注した。アフガンやイラクへの攻撃に使われる超精密誘導弾などのハイテク電子兵器も大量に発注されているという。それによって2002年1-3月期のGDPは5.8%、国防支出は19.6%も伸びを示しているという。他方で、このような政策は1000億ドル=約12兆円)の財政赤字を発生させているという。 こういった軍事部門への支出によって、さまざまなものが破壊される。武器は使われなければ無駄になるからだ。他国を攻撃して兵器を消費することと国土や建物の破壊が同時に行われる。そして、破壊したものを「復興」させるとして次にはゼネコンが発注を受けるのである。作っては壊す。これがビジネスになっているのだ。軍産複合と復興ビジネス。 日本はどうか?内橋氏は「ご破算主義」という考え方を提示する。それは、経済的・社会的な権利や安全ネットとして機能してきた労働権、ナショナルミニマム、社会保障といったものを「既得権」として全てご破算にするというものだ。それらが、利潤追求の邪魔となるからである。そこで聞こえてくるのは「既得権打破」「規制緩和」「自由な市場競争」といった威勢の良い掛け声である。しかし、この事態は「レース・トゥ・ザ・ボトム(どん底へ向けた競争)」低位平準化をもたらす競争や「ウィナー・テイクス・オール」価値組みが全てを得るといったことを引き起こすという。実際に日本社会でもホームレスが増え、失業率が高まり、工場閉鎖が相次ぐという事態が生じている。社会の弱いところにしわ寄せが来るのだ。 このような状況を踏まえれば、「もうひとつの世界」や「もうひとつの日本」が必要なことが分かってくるだろう。では「もうひとつ」とはどういったものなのか?内橋氏は1つの理念としてFEC自給圏を訴えている。Food、Energy、Careを地域で自律的に供給するということだ。そして、それらが「新基幹産業」となっていくという。デンマークで実践されている「市民共同発電方式」や北九州市で推進されているエコタウンプロジェクト、「働くよろこび、作るよろこび、使いよろこび?分かち合おう」という呼びかけをしているジャパンシェアリング、民間企業が取り組んでいる「人間共生の社会」へ貢献するさまざまな技術などが紹介されている。例えば、海水を淡水に変えて飲料水を作り出す技術などが挙げられている。 新自由主義はよく「代替案はない(there is no alternative)」という標語で市場至上主義を正統化するが、社会の中にはさまざまな実践が現実に代替案として成立しているのだ。こういった具体的な実践が積み重なっていくことで「『会社が潰れても人間は潰れない社会』が可能となる」(p.236)ということだ。「もうひとつの日本は可能だ」。 圧倒的な圧力で迫り来る「経済的グローバリゼーション」は多くの人々の認識に深く、強く影響を及ぼしている。人々の行動や社会のあり方へ、制度設計は依然として「規制緩和」「自由化」「自己選択と自己責任」といった論理に貫かれている。「勝ち組みvs負け組み」といった枠組みで「生」そのものが捉えられたりもしている。そういった中で「もう一つの日本」がどこまで「生きる喜び」や「充実した生への感覚」を提供したり誘発したりできるだろうか?年間3万人が自殺する社会の中で、「一緒に協力して愉しく生きる」可能性や実践を発信し続ける、一人ひとりがその一部になっていくことも非常に重要だ。
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