9・11を消費しないために
後藤 彰

9月11日がまたやってくる。
2年前、僕は出先から帰って来て出来事を知った。
呆然とした。当日は生きる気力を削がれるという感覚が強くあった。「やってられねぇ」
その後もいろいろなことに対する違和感が拭えなかった。
それは、テロ行為に対してだけではない。
自身のしてきたことやしていることは棚に上げて被害者を装い「USA!USA!」と騒ぎ立てる「アメリカ」に対してもだ。
2年経っても状況はそれほど変っていない。
今年も「アメリカ」はテロ被害者を装い、報復戦争を正当化するだろう。
「我々は攻撃されたんだ。攻撃し返して何が悪い」「今度は攻撃される前に攻撃してしまえ」とでも。

他方で、報復戦争に反対していた被害者遺族たちが「アメリカ」にいる。
「アメリカ」のこれまでと現在の愚行を反省的に捉える動きもある。そもそも70年代のアフガン戦争時代に操り人形のごとくタリバンを組織したのは「アメリカ」だった。
20%の豊かな人々が80%の富を独占する歪んだグローバルな経済の支配構造や爆撃で破壊した街を復興と称して公的資金を投入するという経済の仕組み。
基本的な構造は9・11の前も後も変っていない。いや、出来事の後でより露骨なものとなっているかもしれない。9・11を正当化の切り札として。
現在でも「アメリカ」がばら撒いた不発弾でアフガンやイラクの人々が傷ついているという。イラクはどんどん状況が悪化しているように見える。

9・11をどのように捉えるのか?何の象徴とするのか?
9・11だけをことさら取り上げ、アフガン空爆開始日(10月7日)やイラク戦争開始日(3月19日)は蓋をされるのか?
その出来事だけで完結したものではなく、連続性や文脈があるものとしてじっくり考える必要があるだろう。


                                                      ©GOTOH Akila 2003-


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